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引用表記:(創年)➡『創価学会年表』聖教新聞社
緑文字は宗門行事

昭和2年

1927.1.20
浅草区橋場町小川ビリヤードにおいて講演会開催。弁士, 小川儀三郎,大久保堅道師,桜井仁道師(大日蓮12-3)
1927.1.23
深川西元町平和会館において講演会開催。弁士,高田清作,長谷川春野,依田克雄,大久保堅道師,山本説道師(大日蓮12- 3)
1927.1.25
日本橋坂本町において講演会開催。弁士,土屋美津子, 高田清作,大久保堅道師,桜井仁道師,山本説道師(大日蓮12- 3)
1927.1月
埼玉県松戸町妙本寺出張所新設にあたり2月より月2回同所において講演会を開催することに決定(大日蓮12- 3)
1927.2.13
松戸町妙本寺出張所において妙本寺住職小松照道師主催の講演会開催(大日蓮12-3)
1927.2.18
東京日本橋坂本町において講演会開催。弁士,土屋美津子,大久保堅道師,桜井仁道師,山本説道師(大日蓮12-3)
1927.3.5-14
御法主日亨上人猊下,九州・大阪地方御巡教(大日蓮12一4 ・5)
1927.3.6
総本山大石寺の児童会, 大書院において開催。参加児童2,000余名(大日蓮12-4)
1927.3.8
長崎市稲佐青年教会において御法主日亨上人猊下御講演。聴衆80余名(大日蓮12-4)
1927.3.18
東京日本橋坂本町において日蓮正宗宣伝講演会開催。弁士,土屋美津子,依田克雄,大久保堅道師,山本説道師(大日蓮12- 4)
1927.3.22
東京浅草区橋場町小川ビリヤードにおいて日蓮正宗宣伝講演会開催。弁士,小川儀三郎,石渡甚蔵,大久保堅道師,山本説道師(大日蓮12-4)
1927.3.27
東京深川平和会館において日蓮正宗宣伝講演会開催。弁士,土屋美津子,長谷川春野,依田克雄,大久保堅道師,山本説道師。 18日以来3回の巡回講演において10余名入信(大日蓮12-4)
1927.5
高田雑司ヶ谷および目白長崎町付近において有元日仁師の講話を毎月一回一般に公開(大日蓮12-6)

昭和3年

1928.4.15
神戸独一本門講増田耕一、日蓮主義宣伝会に出席。仏立派僧7名、身延派僧10名、会員300余名会合の席上日蓮主義宣伝会の正当ならざるゆえんを演説。ために同会自然消滅(大日蓮15-2)
1928.6.8
御法主日亨上人猊下、法を日開上人に付す
1928.6月ごろ
牧口常三郎(57歳。後の創価教育学会初代会長)、その秋、戸田城聖(本名は甚一、2代会長)法華講信徒三谷素啓により折伏され日蓮正宗に入信。
「法華経に逢い奉るに至っては、われわれの日常生活の基礎をなす科学、哲学の原理にして何らの矛盾がないこと、今までに教わった宗教道徳とはまったく異なるに驚き、心が動きはじめた矢先、生活上に不思議なる現象が現れ、それがことごとく法華経の文証に合致しているのには、驚嘆のほかはなかった (『 創価教育学体系 梗概』)」  
牧口氏入信の動機「貧困と、子供達を次々に病没させたことにあるのだろう」(柳田国男 『牧口君入信の動機』) 「戸田城聖も、牧口の入信後、すすめられるままに、三谷に会い、その話を聞いて入信した。彼28歳の時である」(創価学会四十年史)。

牧口家先祖
あの初代会長牧口先生は、昭和の初めごろ、本宗に入信せられたのですが、入信後たまたま新潟の実家に帰って、その家にあったお御影様を見たところが、本宗の十七代日精上人の御開眼のお御影様であったのであります。ひじょうに驚かれたのでございます。そのお御影様は、私も拝見いたしたことがございます。これで牧口先生の先祖が、二百八十年も昔に、すでに折伏下種せられておったということを知ることができるのであります。そのように、すでに折伏下種せられておったのが、ドロ沼の蓮華のごとく三百年近くもたってから、ふたたび芽をふきだして、以前にもまして、いっそうりっぱな花を咲かせ、今日の創価学会のはじめをなしたのであります。 (日達上人全集第一輯三―二六八頁)

昭和5年

1930.6.25
戸田 城文堂を設立 『推理式指導算術』を発刊
1930.11.23
「創価教育学体系」第1巻を発刊
創価教育学会設立はこの本の発行(11月18日)から後年、18日にこじつけられたのだが、当時の検閲への提出が遅れ、奥付には11月23日発行と修正されている。つまり、11月18日にはこの本は世に出ておらず、11・18を学会創立の日とすることは根拠がない。詳しくは➡
 
池田家 大田区東糀谷に移転

昭和6年

1931.3
『価値論』を発表
1931.4
牧口、東京市新堀尋常小学校に校長に赴任
1931.7.5 
日淳上人 中野教会所(歓喜寮ー昭倫寺)設立

牧口ら、住職に就任した堀米泰栄師(のちの第65代猊下)との親交深まる。(創年)
1931.9 
謹んで六百五拾遠忌を迎ふ
時は昭和六年十月九日より同十七日迄、処は多宝富士大日蓮華山大石精舎に於て全国五千の真俗が真心こめて最も意義ある、最も荘厳なる六百五拾遠忌大法会を奉修し得たる事じゃ永遠に忘るる事の出来ない喜びであった。【宗報  昭和6年11月号】

第一班巡教報告(宗門) 
9月4日~9月18日  青森・北海道・樺太方面へ巡教、講演などを行う。10日の講演では来聴者120余名。
第二班巡教報告(宗門) 
9月3日~9月18日  九州・四国方面へ巡教、講演などを行う。6日の講演では聴衆100余名。
第三班巡教報告(宗門) 
9月6日~9月17日  九州・四国方面へ巡教、講演などを行う。愛知県において巡教。この地で500名の団体登山者を集う。 【宗報  昭和6年11月号】
1931.9 
第一班巡教報告 
第二信(宗門) 9月19日~10月2日  北海道・青森・岩手・宮城・福島方面巡教、講演などを行う。24日講演、聴衆者150余名ほか連日、講演を行う。

巡教師による講演 
清水市妙盛寺 9月27日 聴衆者100余名。【宗報  昭和7年1月号】
巡教師による講演 
公会堂葵文庫 9月28日 聴衆者500余名。【宗報  昭和7年1月号】

昭和7年

1932.3.31
新堀尋常小学校廃校 牧口、教職から離れる
1931.6
本山青年僧侶による弁論部発足(宗門) 
6月21日に第一回目の講演行う。来聴者30名。【宗報  昭和7年7月号】
1931.7.9
砂町教会所 月例講演会
1932.7.15
「創価教育学体系」第三巻発刊
1932.7.21
青年弁論部第三回例会(宗門) 来聴者30名。【宗報  昭和7年8月号】
1932.7
牧口常三郎 直達講幹事に任命(7/23日付) 資料➡
【宗報 昭和7年7月号】→  講頭に三谷素啓

※この時、法華講の幹事にに就任しているため、あくまで講中の信徒としての活動である。『創価教育学会』という宗教と離れた名称のグループを正式に認めるはずがないのである。
その後、三谷講頭と絶交 折伏・教化親であり直達講・講頭の三谷と流義上、相容れなくなり激論を交わした末絶交。
1931.8.19
本山青年僧侶弁論部定期練弁会 
1931.8.20
本山青年僧侶弁論部大講演会  来聴者1000余名。【宗報  昭和7年9月号】
1932.9
三谷素啓氏の訃
東京市外落合町下落合なる三谷六郎(素啓)氏は直達講々頭として三拾余名を有し将来を期待せられし篤信家なりしも数年前より慢性尿ドク症にて療養中の処本年二月頃病勢一変し肺炎を併発し遂に去る七月二十日死去せられたり。享年五拾五歳。因みに前記直達講は本年六月二十三日許可せられたるものにて講の基礎も充分ならざるの時同氏を失ひたる為め一頓挫を来したるは遺憾と云うべし。【宗報  昭和7年9月号】
1932.9.10
砂町教会所月例講演会 【宗報 昭和7年10月号】 
1932.9.13
三谷講頭死去のため直達講解散 【宗報 昭和7年9月号】  
1932.10.12
青年弁論部秋季大会(宗門)  
部員は前夜来より各戸に宣伝ビラ、或は要所々々にて宣伝演説をなし、当夜も先発隊(第一班)は午後四時頃出発新道筋に於て宣伝演説をなし午後六時の定刻を告ぐるや聴衆は陸続として講堂目がけて集ひ来り定刻を過ぐる三十分(第二班)にて小笠原師、山本師、渡邉師、大村部長、江花君の到着を待って幹事中川晃道君の開会の辞に依って茲に秋季大会の幕は切って落とされた。聴衆七百余名 上野小学校講堂 【宗報 昭和8年1月号】 

昭和8年

1933.2.1-14
青年弁論部巡回大講演  12ヶ所に渡る会場で講演会を行う 【宗報 昭和8年3月号】
1933.3.9
日開上人 東北地方大地震大津波災害につき義捐金勧募を訓諭
1933.5.1-6
青年弁論部春季大講演 5回に渡る講演会を行う 【宗報 昭和8年6月号】
1933.6.10
青年弁論部月次練弁会  寛師堂に於いて開催 【宗報 昭和8年7月号】
1933.7.23-28
日蓮正宗有志主催 夏季修養会開催   【宗報 昭和8年8月号】
1933.7.28-8.4
第九教区讃岐地方   8/1の講演には350名の来賓者【宗報 昭和8年10月号】
1933.8
牧口・戸田ら宗教活動始める  新潟県・荒浜で友人らを折伏
 
堀米尊師の御講に牧口、戸田らが参加
他の講員とも相容れなくなり、中野・歓喜寮(後の昭倫寺)に所属替え。
当時の歓喜寮御住職、堀米泰栄尊師=後の65世日淳上人に指南を仰ぐが、在家団体・創価学会の設立を願い出たが許されなかった。
1933.9.26
尾州法難碑除幕式   1000余名の僧俗が参列

この年、時習学館で月1回、堀米尊師を迎え法華経講義を開催(創年)

昭和9年

1934
池田氏 羽田第二尋常小学校に入学
1934.6.20
「創価教育学体系」第四巻発刊

昭和10年

1935
教育宗教革命正法研究会 折伏座談会 東京・神田の教育会館(「創価学会年表」)
1935.2.11
戸田氏 松尾幾子と再婚。白金台に新居を構える。

昭和11年

1936.1.19
教育宗教革命正法研究会の座談会(東京・現本行寺) 
富士宗学要集講習会終了後、牧口主催による創価教育学会の座談会を開催。堀日亨上人猊下が出席。 【飼料・昭和11年2月号 大日蓮】➡
1936.2
牧口 長野県に折伏活動  17人の入信者を生む
1936.2.23
教育宗教革命正法研究会の座談会(本行坊=現本行寺)、堀日亨御隠尊猊下の出席のもとに開催。(創年)
1936.3.24
牧口、戸田歓喜寮での彼岸会に出席。(創年)
1936.4.15
「新教」第6巻第4号(4月号)に「創価教育学会綱領」を掲載。
「創価教育学体系を中心に教育学を遂行し、国家百年の大計たる教育の徹底的革新を遂行し、且又それが根底たる宗教革命の断行をなすを以て目的とするの一項が明示され創価教育学会の使命がより鮮明になる。(創年)
1936.4.19
教育宗教革命正法研究会例会。(歓喜寮) (創年)
1936.5.10
教育宗教革命正法研究会の座談会。(歓喜寮) (創年)
1936.5.17
牧口及び研究員4人、堀日亨御隠尊猊下による富士宗学要集講習会に出席。(本行坊) (創年)
1936.6.6
研究員20人、堀米尊師こ講話を受講。(時習学館)(創年)
1936.8.13
第1回夏季講習会(総本山大石寺) 牧口ら9人が参加
1936.11.2
戸田氏の長男・喬久誕生

昭和12年

1937.1.27
学会顧問・秋月左都夫を招いて懇談会(東京・品川の玄海)。会員名簿が作られ約100人が名を連ねる。(「創価学会年表」)
1937.7
第2回夏季講習会(総本山大石寺) 牧口ら参加。
 
日淳上人から「在家団体・創価学会」の許しを貰えず、「創価教育学会」として発会式を行う。

このころから、上人に対する誹謗・罵倒などを行う。

「本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は、ここで日蓮正宗と縁が切れ」(竹尾氏が日亨上人から伺った話)

日淳上人は、牧口らの信仰上の再起を願い、元の常在寺を所属寺院として戻れるよう手配

昭和13年

1938.1.10
戸田、「推理式指導算術」の改訂87版を発刊
1938.7
第3回夏季講習会(総本山大石寺、約20人参加)
 
池田家 大田区西糀谷に移転

昭和14年

1939
池田大作少年 朝夕の新聞配達を始める 。
1939.8
第4回夏季講習会(総本山大石寺)
1939.12
創価教育学会第1回総会 (麻布の料亭・菊水亭にて開催。約50人参加)
事実上の初総会

昭和15年

1940.1.1
戸田氏 『小学生日本』を創刊(後に小国民日本に改題)
1940.3
池田氏 羽田第二尋常小学校卒業
1940.4
池田氏 羽田高等小学校(翌年、萩中国国民学校に)に入学
1940.8
第4回夏季講習会(大石寺)に参加。

戸田氏 日本商手株式会社を設立

創価教育学会の本部を東京・神田錦町へ移転
1940.10 
創価教育学会の綱領、規約、組織などを検討し、本部、支部(東京)、地方支部を設置。
会長・牧口常三郎、理事長・戸田城外に加えて、新たに本部役員として理事に矢島周平ら12人が就任。同時に本部に企画部、教育研究部、教育者倶楽部、創美華道研究部、折伏指導部、生活革新倶楽部、印刷部、婦人部、青年部、少年部の10部を設置。(「創価学会年表」)
1940.10.20
創価教育学会臨時総会(九段・軍人会館 約300人参加)
1940.11 
牧口ら九州指導 約2週間
 
この年、原島宏治、小泉隆、和泉覚、辻武寿、柏原ヤス等が相ついで日蓮正宗に入信

この年、会員数約500人。東京9支部、地方支部7の計16支部。

昭和16年

1941.3.10
牧口会長、総本山大石寺での僧俗護法会議に出席
同会議では、身延派との合同問題をめぐる宗門の態度決定についての協議がなされ不参加を決議(三月三十一日、日蓮正宗は単独で宗制の認可を得る)(『創価学会の年表』)
1941.4.20
創価教育学会臨時総会 (東京・共立講堂)
1941.7
池田氏の長兄・喜一除隊
1941.7.20
創価教育学会、機関紙『価値創造』創刊
1941.8.7
第6回夏季講習会(総本山大石寺、183人参加)
1941.8.20
「価値創造」第2号 「規約綱領を掲載」その第2条で、「本会は日蓮正宗に伝わる三大秘法に基づき教育、宗教、生活法の革新を計り以て国家及び国民の幸福を進めるを目的とする」を定める。(「創価学会年表」)
1941.11.2
創価教育学会昭和16年度総会 (東京・神田、教育会館 約400人参加 )
1941.11
九州総会 (福岡の武蔵旅館 約40人参加)
 
この年、会員数約2,000人。東京13支部、地方支部9の計22支部。

昭和17年

1942.3
池田氏 萩中国民学校卒業
1942.3
池田氏 新潟鉄工所に就職
1942.5.17
創価教育学会第4回総会 (東京・神田の教育会館、約400人参加)
1942.8
第7回夏季講習会 (総本山大石寺、約150人参加)
1942.11.6
堀米尊師 学会幹部10数人に忠告
「過去十年来の結果に於て創価教育学会の信仰指導には何等の弊害はなかった。但し将来は弊害がありそうである。」
1942.11.22
創価教育学会第5回総会 (東京・神田の教育会館、約600人参加)
「大善生活実証録」として総会の内容を出版
1942.12
池田氏の長兄・喜一 再び出征
1942.8
第7回夏季講習会(大石寺)に150名参加。
 
牧口会長自ら、宗門と絶縁と近い状態となる。
会員にも寺に行くことを止めさせる。 「牧口氏は、所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師と論議し、『もう貴僧の指導は受けない』と、席を蹴って退去」『畑毛日記』

直達講の副講頭であった竹尾清澄氏は、当時の牧口氏の信仰を次のように記している。「牧口氏は(中略)利善美の理論などを説き、畑毛を中心に左右の山地を取り入れた一大仏都建設の構想などを述べていたそうであるが、是は全く日蓮正宗を無視する異流と云わざるを得ない。牧口氏はあれだけの学識がありながら、仏法上の総別ということになると、どうも認識が浅いような所が見られた。」

牧口ら靖国神社に参拝
我々が靖国神社へ参詣するのは『よくぞ国家のために働いてくださった。有難うございます』といふお札、感謝の心を現す」(学会機関誌「大善生活実証録」)と牧口会長が語る。つまり牧口等が靖国神社参拝を行っていたことを意味する。

昭和18年

1943.5.2
創価教育学会第6回総会 (東京・神田の教育会館 約700人参加)
1943.5
戸田ら「富士倶楽部」 設立
創価教育学会を守るという目的として12名で結成
1943.6
学会をマークしていた特高警察は、東京・中野の学会員が近所の子供が死んだことを「罰だ」と決め付け折伏したことで、逮捕される事件が起きる。

宗門はこの事態を憂慮され、牧口・戸田を呼び「伊勢の神札を焼却する等の国禁に触れぬよう」忠告する。これによって、戸田氏から通牒が会員に配られる。
1943.6.25
神札を受け取っていた創価学会
創価教育学会各理事 仝 各支部長殿
理事長 戸 田 城 外  通 諜

時局下、決戦体制の秋、創価教育学会員には益々尽忠報国の念を強め会員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固に■■米英打倒の日まで戦ひ抜かんことを切望す。依って各支部長は信心折伏について各会員に重ねて左の各項により此の精神を徹底せしめんことを望む。

一 毎朝天拝(初座)に於いて御本山の御指示通り 皇祖天照大神皇宗神武天皇肇国以来御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し、国運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すべきこと。  
一 学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと。
一 感情及利害を伴へる折伏はなさざること。  
一 創価教育学会の指導は生活法学の指導たることを忘る可からざること。
一 皇大神官の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること。
六月廿五日
【通牒の画像】➡

受け取っていたとする幹部の証言
「私達は大麻を祀ることを却って不敬として、これを撤去し焼却したのである。」(『我が心の遍歴』野島辰次)
1943.7.6
牧口、戸田ら逮捕
牧口会長・戸田理事長ら21人の幹部 
治安維持法違反・不敬罪等の罪状により拘引。当時、天照大神を祀る伊勢神宮の神札が強制的に配られたが、学会はそれを拒否、焼却した。 「日本が戦争に勝つためには、天皇陛下が法華経を信仰するしかない。さもなければ日本は戦争に負ける」主張していた事から見て、現在学会が「戦争に反対し、平和主義を貫いたから」とはウソ。 当時の学会機関紙「価値創造」にはヒトラーを称賛するような記事が掲載される。
治安維持法第七条「国体を否定し又は神官者若は皇室の尊厳を冒漬すべき事項を流布することを目的として結社を組織したる者又は結社の役員其の他指導者たる任務に従事したる者は無期又は四年以上の懲役に処す」
1943.8
牧口証言「神札受け取っていたのは500名以上」
創価育学会の会員は全部で現在一千五百名位あります。之等の会員は全部私の指導に依って直接私からや或は学会員から又は会員各自が伊勢の皇大神宮の大麻其の他の神宮・神社の神札・御守・神棚等を撤去焼却したものであります。(中略)
私の直接指導に依って皇大神宮の大麻や其他の神宮・神社仏閣等の神札・守札・神棚等を取壊し焼却した者は現在迄で五百人以上あると思ひます。(『特高月報8月号 牧口訊問調書』)
1943.11
時習学館 事実上閉鎖

昭和19年

1944.1.1
戸田 獄中で一日一万遍の唱題と自文の法華経を読むことを始める
1944.3
戸田 学会が言う獄中悟達
1944.9.6
牧口会長は謗法の罪
●戸田理事長獄中の手紙
堀米先生に、去年堀米先生を『そしった』罰をつくづく懺悔しておると話して下さい。『法の師をそしりし罪を懺悔しつつ、永劫の過去を現身に見る』と言っておりますと」(昭和19年9月6日、妻あて)
1944.11.18
牧口会長獄中で逝去
特高が牧口らに目を付けていた点は、
①天皇凡夫論 ②教育勅語批判 ③法罰論 ④国家神道批判 であると考えられる。
●牧口への尋問調書の一部
「会員は悉(ことごと)く日蓮正宗の信者として、常在寺、歓喜寮、砂町教会、本行寺において授戒して居りますが、創価教育学会其ものは、前に申上げた通り日蓮正宗の信仰に私の価値創造論を採入れた処の、立派な一個の在家的信仰団体であります」

牧口の死は先業の罪
毎日、独房のなかで、「私はまだ若い。先生は七十五歳でいらせられる。どうか、罪は私一人に集まって、先生は一日も早く帰られますように」と大御本尊に祈ったのである。牧口先生の先業の法華経誹謗の罪は深く、仏勅のほどはきびしかったのでありましょう。(『戸田城聖全集3』 創価学会の歴史と確信)
 
池田氏の四兄・清信 

出征 空襲で創価教育学会本部、日本商手が焼失
 
後年の池田語録 
「大東亜戦争の最中には他の宗教、他の教団は、ぜんぶといっていいくらい軍部と結託をしました。その時に日蓮正宗だけは、単独でがんばりきった宗団です(会長講演集 2-143頁)」



書籍紹介ほか

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