昭和56年

1981.1.1
「新年あいさつ」北條会長
「日顕上人猊下に対し奉り、宗門にあつて、唯授一人の血脈を否定するかのごとき言動があるやに開いておりますが、私どもはすでに誓い合っているごとく、いかなることがあっても御法主日顕上人猊下をお護りし、総本山厳護の我が学会の尊き使命を貫き通していこうではありませんか…‥いま、つくづくと思いますことは、昨年一年間、創価学会がおかれた立場はどうであつたかということであります。あらゆる仏道修行を妨げる三障四魔が競い起こりました。そして、独り池田名誉会長に中傷・非難の攻撃が集中しました。しかし名誉会長は、悠然と一切の防波堤となり、全会員の尾根ともなって、守り支えてくださいました」(聖教56・1・1)
1981.1.2
日顕猊下 大聖人700遠忌に当り訓諭
1981.1.14
第1回世界教学最高会議(ハワイ会館)
池田「…日蓮正宗創価学会の根本中の根本は、一閣浮提総与の本門戒壇の大御本尊であることはいうまでもない。更にその大御本尊は、日蓮正宗に厳然とおわします。よつて代々の御法主上人貌下が法水潟瓶・血脈相承なされ、現在は日顕上人猊下に一切、受け継がれているのである。故に私共は、日顕上人猊下の御指南を拝しつつ、正宗の伝統と法義を踏まえながら、勇んでそれぞれの国でそれぞれの地域で信心のための教学としておおいに広宣流布に励んでいただきたい……今までの教学陣をさらに整備し、信行学ともにすぐれたリーダーを基準として、御宗門とも相談しながら、新しい教学の認定証を交付することを提案したい」(聖教56・1・16)
1981.1.15
1月度壮年部幹部会(東京戸田記念講堂)
森田「…たとえいかなる苦難、嵐のなかにあろうとも、どこまでも御本尊根本に、そして御法主上人猊下の御指南を中心に、壮年部が盤石なところ、広布の伸展はある、との心意気で威風堂々の前進を開始していこう…」(聖教56・1・15)
1981.1.19
御書学習会(ハワイ会館)
池田「…私どもは、大聖人の門下として、全人類の救済めざして、真実唯一の法、三大秘法の南無妙法蓮華経を流布しながら、今再び人間の奥深き世界に覚醒の光をあて、幸福と平和への暁鐘を打ち鳴らしているのである。その根本道場が、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊まします多宝富士大日蓮華山大石寺である…」(聖教56・1・21)
1981.1.21
1981.1.21
第256回本部幹部会(宮城県スポーツセンター)
北條「…宗祖日蓮大聖人第七百遠忌という重要な時を迎えて、障魔が競い起こるのは当然である。一部僧侶の中に、御法主日顕上人猊下の血脈相承を否定する者がでているが、大謗法といわざるをえない。私達はあくまで本門戒壇の大御本尊のもと総本山を根本に、御法主日顕上人猊下を厳護申し上げ広宣流布の活動を展開していくものである…」(聖教56・1・23)
1981.1.24
山崎正友氏 学会に対する3億円の恐喝未遂容疑で逮捕。実刑に服す。
 
山崎氏 ペン事件の上申書を提出
これによって、ペン裁判は差し戻しに 「隈部氏を告訴するに当たっては、矢野公明党書記長、大野潔代議士、小谷野三郎弁護士、龍年光、藤井富雄、大川清幸東京都議会議員らが法務省幹部、警視庁幹部と、めんみつな打ち合わせをしました。衆、参両院議員法務委員長の権限を背景に法務省筋に圧力をかける一方、東京都議会におけるキャスティングボートをにぎる与党としての力、即ち警視庁予算を左右する力を背景に警視庁に圧力をかけたのであります。」
1981.1.25
富士宮で「創価学会の社会的不正を糾す会」がデモ行進
1981.1.25
朝日新聞
反創価学会運動を続けている日蓮正宗の僧の一人、山口法興氏の話「この運動は、私たちの意志で始め、その後に山崎が私たちに接触してきたというのが真相、その意味で、山崎と我々の運動とは当初から無関係である」
1981.2
学会 原島元教学部長に賠償訴訟
原島氏が学会の内部資料を複写し持ち出したことに対する、損害賠償訴訟を東京地裁に起こす。
 
「正論」2月号  創価学会恐喝事件の真相(野崎勲青年部長)
1981.2.17
NSA第2回信心懇談会(ロサンゼルス)
池田「‥金銭貸借は信心の世界ではあつてはならない。共同事業も原則的には、してはならない……これだけ大きくなると、すべての人が平等に御本尊の子どもであるということを忘れ、自分の配下のように考えてしまう場合がある。その考えは間違いである。メンパーあっての幹部である。結局、勤行を怠った人や、会員の方々に迷惑をかけた人は、最後は行き詰まり、退転し、反逆し、和合僧の世界にいたたまれず、去っていった」(聖教56・2・19)
➡実態は、池田のもと学会外郭企業が会員をターゲットに多額の金儲けをしている。
1981.2.20
池田、パナマのノリエガ将軍と会見(パナマ)
「旧知のSGI会長との再会を喜ぶノリエガ長官は『この島に、日本人で最初にお連れするのは、池田先生しかいないと考えていた』と述べ、島の頂上まで、みずから案内し『先生を″パナマの市民″として、我々は歓迎する』と語った」(聖教56・2・22)
➡後年、ノリエガが逮捕拘留され、学会はノリエガとの交流をすべて歴史から抹消。
1981.2.22
第257回本部幹部会(埼玉・所沢市民体育館)
秋谷「…宗内においては、大阪・蓮華寺住職の久保川法章が、本門戒壇の大御本尊並びに唯授一人の血脈相承という正宗の根本義に関して″戒壇の大御本尊と雖も即久遠元初の自受用報身如来であると断定するわけにはいきません″とか″血脈相承は法主にのみ伝えられてきたと考えられておりましたが、これは明らかに間違いであります〃と論じるなど、正宗の信仰を根本から否定する異説を唱えるに至っている。故に宗門では訓戒を与えたがそれでも改めないので、二月九日付をもって擯斥処分に付した。また、御法主日顕上人猊下に対し、管長の地位不存在確認を求める訴えを起こし、正宗の僧侶にあるまじき行動に出て宗内を混乱させている動きがあります。これらは、宗祖日蓮大聖人第七百遠忌を前に、いよいよ魔がその正体をあらわしてきたといえる。私どもは、あくまでも御法主日顕上人の御指南を根本とし、総本山外護の任をどこまでも全うし、宗門と学会を壊そうという魔の働きに対して″勝利″の実証をもって断固打ち破っていきたい…」(聖教56・2・24)
1981.2.24
パナマ広布13周年記念勤行会(パナマ会館)
池田「‥妙法という法を、一幅の御本尊として御図顕あそばされたのが、日蓮大聖人である。この三大秘法の御本尊は、総本山富士大石寺に、厳然とましまし、七百年の伝統を経て、今、日顕上人が付属されている。その御本尊を、御書写されるのは、御法主上人猊下御一人であらせられ、それが、今、皆さま方が信受し奉っている御本尊なのである」(聖教56・2・26)
1981.3.4
3月度全国県長会議(東京・広宣会館)
秋谷「…仏法破壊の動きに対し、我々はどこまでも御法主上人猊下の御指南を根本に、総本山を厳護し僧俗和合して前進したい…」(聖教56・3・5)
1981.3.5
原島氏 学会に対し「損害賠償債務不存在確認請求」(東京地裁へ)
学会の言うような損害は与えていない旨、法的に確認を求めたもの。 (S59.713 学会は全面取り下げ)
1981.3.12
創価学会の社会的不正を糾す議員連盟と檀徒合同の総会
池田大作の国会喚問を求める80万名の嘆願書が議員連盟に手渡される
1981.3.21
聖教社説「彼岸の真義に思う」
「先祖の抜苦与楽を願っての日々月々の唱題・弘教の功徳がそのまま回向されるとはなんとありがたいことか。とくにお彼岸の日には、追善回向の真心を込めて、正宗寺院に参詣し先祖の塔婆を立てて回向するなど、今は亡き方々も自身もともに大きな福徳善根を積む機会としたい」(聖教56・3・21)
1981.4.7
最高裁 御供養金返還を門前払い
松本勝弥らが創価学会に対する御供養金の返還を求めた訴訟を門前払いの判決
1981.4.10
東京地裁 山崎恐喝事件の初公判
1981.4.16
ペン裁判 最高裁が差し戻し判決
最高裁は、池田氏に関することは「公共の利害に関する事実」として東京地裁に差し戻しを言い渡す判決
1981.4.27
教師補任披露宴(総本山)
日顕猊下「…大聖人様の仏法は、常に申します通り、難信難解の法であります。難信難解であるが故に、その起こってくる相は様々であり、到底、凡眼凡智をもってしては計ることの出来ないものであります。そして、今の宗門の相はまさに、そのような意味からの疑いが起こってきておる状態であると、はっきり言えると思うのであります。しかしそれは、疑いの心、あるいは浅はかな心をもって考えれば本山に背いて勝手な行動をとるような結論になるかもしれませんが、御書を深く拝し、御本尊様に真剣にお題目を唱えて、大聖人様の御意を少しでも拝しつつ進む覚悟をもって修行するならば、おそらくその行き先には正しい筋道が、瞭々として現れてくることと思います…」(大日蓮424)
1981.5.18
ドイツ日蓮正宗20周年記念行事(フランクフルト会館)
池田「今われわれは、その永遠にして普遍の幸福を創出できうるドアを日蓮正宗に求めた。すなわち、宇宙根源の法を、そのまま御図顕あそばされた大御本尊に帰依することによって、確実なる実証を得ながら、その道を歩んでいるといってよい。その大御本尊まします日蓮正宗総本山大石寺が、その原点なのである…」(聖教56・5・20)
1981.5.30
継命 レポート「学会・公明党政教一致の実態」
「東京戸田記念講堂で行われた五月度全国男子部幹部会での太田男子部長の指導。七月度東京都議選を三十六日後にひかえ、『選挙活動』の上げ潮、つくりに躍起になり、信仰活動と選挙とを故意に混同させた甚だしい逸脱指導の証拠。一般社会向けには政教分離のタテマエ論を掲げ、組織内部では信仰目的=広宣流布=選挙の勝利として、政党支持は自由であるはずの学会員に、公明党議員のすさまじい応援を強いる――これこそ社会を欺く学会の姿。男子部長の指導は、録音の上全国各地の座談会等で選挙支援徹底のために流され、これを憤るある地方会員の方から、編集部に録音テープが送られてきた」(継命56・9・1)
1981.5.30
イタリア広布20周年記念勤行会(フイレンツェ)
御観念文について
池田「‥御観念文について申し上げれば‥‐三座は、御本仏・日蓮大聖人に対する御報恩感謝、並びに日蓮大聖人の仏法を血脈相承なされ、現在の富士大石寺を御開基なされた日興上人に対する御報恩感謝である。さらには、第二祖日目上人をはじめ唯授一人の血脈を受けられた、正法の正師であられる歴代の御法主上人に御報恩感謝申し上げるのである。現在においては、ご存じの通り第六十七世日顕上人猊下が厳然と大法を受け継がれ、仏法の師匠としておられるのである‥」(聖教56・6・2)
1981.5.31
第六回檀徒総会
1981.6
第一回世界青年平和文化祭(シカゴ)
1981.6.5
第1回ヨーロツパ代表者会議(欧州研修道場)
池田「私どもはあくまでも日蓮正宗総本山を根本とし、御法主日顕上人を厳護申し上げる…」(聖教56・6・7)
1981.6.7
ヨーロッパ記念総会(欧州研修道場)
池田「‥この大仏法の究極唯一の法体は、申すまでもなく、本門戒壇の大御本尊であり、法灯連綿、御歴代の御法主上人がこの大御本尊を厳護し奉りてここに七百年、そして、あいがたき宗祖日蓮大聖人第七百遠忌の今日にあっては、第六十七世日顕上人猊下に、この絶対なる血脈は、厳然と承継されているのである。誰人がいかなる非難をいたそうが、これは侵しがたき、明確なる事実なのである。恐れ多くも、遠く日蓮大聖人の時代にあっても、仏法の永遠の師であられる大聖人に弓を引く僧があったが、今また、元正宗の久保川某をはじめとする一派が、御法主上人に違背叛逆している。その『心破作七分』の大謗法は、誠に堕地獄の所業であり、正法奉持の厳しさここに極まれり、と思わざるを得ないのである…」(聖教56・6・9)
1981.6.20
信法寺落慶入仏式(福岡)
日顕猊下「今日、宗門には様々の思い違いをしておる僧侶や、一部の信徒がおりますが、その人達はその根本である宗門の法義を否定し、信仰を否定して、自らの小さな善悪観に執われて法主の悪口を言っております。このような姿は、自ら法門の無尽を究めようとする心を捨て、仏道の無上を得んとする心を捨て、また衆生の無辺なるを救わんとする心を放棄しておるところの姿であります。これは、根本の大聖人様の血脈の仏法に反しておるのでありまして、したがってその人達の唱える題目は、いかほど唱えても全く功徳はないのであります。」(大日蓮425)
1981.6.26
聖教「寸鉄」
「御法主日顕上人 サンフランシスコ到着 今 富士の清流は世界へ」(聖教56・6・26)
1981.7.5
都議選27名当選
1981.7.15
聖教社説「妙法の回向こそ真の追善供養」
日蓮正宗においても、各寺院で孟蘭盆会が修され、草木成仏の法理に基づき塔婆を立てて先祖の菩提が弔われ、ねんごろな追善供養が行われる」(聖教56・7・15)
1981.7.17
沖縄で住民票移動事件発覚
沖縄市選管 学会員11名を住民票移動で選挙人名簿から削除
1981年7月の那覇市議選に際してで、実証の端緒は地域の共産党が有権者名簿などにもとづいて支持者を広げる活動をしたことにある。活動のなかで那覇市に選挙権はあっても、住んでいないというユウレイ有権者があちこちで出てきたのである。 「いったい本人はどこにいるのだろうか-----。住民票を手がかりに前住所地をあたってみると、なんと9人は『前住所』の浦添市にずっといっしょに住んでいたのです。 那覇市と浦添市の両方の『住所地』を調べていくなかで、票移動の手口が明るみになりました。那覇市壺屋の創価学会員T・G宅。ここには同じ日に3人分の票移動をしています。うち2人は58歳の女性とその二男(26歳)。夫を残して2人で転入したことになっていますが、実は浦添市の前住所地に家族で住んでいます。 もう一人、33歳の女性。やはり夫と子どもの3人を残して移転したことになっていますが、実際には浦添市に家族そろって住んでいます。浦添市で創価学会員の両親といっしょに住んでいながらも、自分だけ那覇市内に住民票を移している28歳の女性もいました。転入先の番地はバーでした」(『赤旗』日曜版1981年7月26日付)  
1981.7.18
北條会長(58) 逝去
深夜、私のところに北条が倒れたという連絡があっだので、すぐ自宅に駆けつけた。
奥さんが一人だけポツンと北条の傍にいて、最後の様子を語ってくれた。「お風呂から上がってお酒を呑んで、扇風機を胸のところに当てているうちに、ウーッといって、それっきりでした」と。
北条の顔をみると、目も囗も堅く結んだまま顔色は、黒ずんだ鉛色であった
出棺のとき、屈強の男子部員が十数人で担ごうとしたが重く持ち上げることが困難であったと、福島源次郎(当時副会長) が私にいった。(『有徳王』 龍年光)
1981.7.19
北條浩第四代会長告別式(東京)
「御法主日顕上人猊下の御名代である藤本栄道総監の導師のもと東京信濃町の北條家で厳粛に営まれた……御法主上人猊下夫人、藤本総監夫人も参列いただいた」(聖教56・7・20)

池田名誉会長 北条氏の葬儀の場で「こんな暑い日に死ぬのはやめよう」と暴言は吐いたと伝わる。
1981.7.24
北條浩創価学会本部葬(東京戸田記念講堂)
1981.7.26
新会長就任記念本部幹部会
秋谷会長指導
●創価学会は、初代会長牧口先生、二代会長戸田先生、三代会長池田先生によって築かれ、日蓮大聖人の仏法を、その教え通り広布流布しゆく使命をもった不思議な団体であります・・・私は池田門下生の一人・・・私はこの池田先生の死身弘法の大精神、すなわちこの学会精神を必ず継承し・・・最後に、学会の永遠の指針である総本山を根本とし、御法主日顕証人を厳護し奉り、一層の御奉公の誠を尽くすことを・・(聖教56・7・27)
1981.7.29
ペン裁判 差し戻し審 第一回公判(東京地裁)
1981.8
ハワイで「第二回SGI総会」
1981.8.6
聖教 「きょう、御登座二周年」
「総本山第六十七世御法主日顕上人猊下は、きょう六日、御登座二周年を迎えられた。御法主日顕上人猊下は、総本山第六十六世日達上人より唯授一人の血脈相承を受けられ、昭和五十四年八月六日、第六十七世御法主として御登座あそばされた。」聖教新聞 1981年8月6日付
 
在勤教師会 「謗法の書"人間革命"」全国送付
1981.9.20
聖教 視点「黒いつながりのグループ・正信会の正体」
「全く信心が狂っている。正信会グループは〃現法主は相承を受けていない″とか″管長でない者が行った処分は無効である″と言い出し、あろうことか日顕上人猊下への訴訟まで起こしている。御法主上人は『まるで頭が狂っておるとしか思えない不心得者』(大日蓮五十六年二月号から趣意)と、正信会僧侶を厳しく破折されている。その姿は、まさに『法師の皮を着たる畜生』そのもの」(聖教56・9・20)
➡学会は破門後、相承否定、猊下のスキャンダルねつ造裁判を起こし、正信会の比ではない。
1981.9.22
聖教社説「彼岸と先祖供養について」
「彼岸会のこの日に、御本尊に御供養し、物故者の塔婆を立てて、回向するが、その善行がそのまま到彼岸すなわち成仏の因行ともなるからである」(聖教56・9・22)
1981.10.6
10月度全国県長会議(東京・広宣会館)
秋谷会長「…いよいよ宗祖日蓮大聖人第七百御遠忌大法会が奉修される十月を迎え、大御本尊根本、御法主上人猊下外護の根本精神を一段と強め、 一連の慶讃行事の無事故、大成功を祈念していきたい…」(聖教56・10・7)
1981.10.8
10月度東京支部長会(東京戸田記念講堂)
秋谷「‥この第七百御遠忌の記念事業の一環として、蓮蔵坊、宗務院庁舎、書院、大坊西寮の完成をみた。過日、総本山第六十七世御法主日顕上人猊下の大導師のもとに奉修された落慶法要に、池田名誉会長とともに参列し、晴れの完成をお祝い申し上げた。これら一連の行事の中で僧俗和合の姿が厳然と確立された感を深くした次第である。どうか、あいがたき大慶事に巡りあった私共は、妙法弘通に励むことの喜びにあふれ、信行を倍増していくとともに、総本山根本、御法主上人猊下厳護の精神を貫いてまいりたい…」(聖教56・10・10)
1981.10.12
ペン裁判 第四回公判
証人として小沢ヨネが出廷。大宮の松島家でハダカの池田を次女・通子が三畳間で奉仕していたと証言。 この三畳間をめぐり、当時は無かったと弟であり聖教新聞職員が証言したが、実際は姉・郁子があったと後に語る。 松島家は学会エリート家族となったが、末弟が脱会、姉妹の断絶など離散状態になる。
➡学会が法廷で偽証。平成に至ってもその悪辣さは変わっていない不正直集団である。
 
池田、猊下から宗祖第七百御遠忌を記念し「居士衣」を賜る。のちに学会重宝と紹介される(聖教56・10・13)
1981.10.16
日顕猊下、池田(七百遠忌慶讃委員会委員長)に感謝状と金盃を贈呈(大日蓮429) (聖教56・10・17)
1981.10.26
ペン裁判 第五回公判
小沢ヨネとともに目撃した飯野なみも同様に証言。 証人・原島嵩氏は池田氏と女性職員の異常な関係や「人間革命」などの著作は特別書籍部のメンバーが書いたと証言。
➡人間革命の最初の数ページは池田自筆原稿が披露されているが、全ページの自筆は存在しないであろう。よって池田の死後、「人間革命は池田が書いた」と証明することは不可能。
1981.11.4
池田談話「宗祖第七百御遠忌慶讃登山、参詣者200万人超える」
「まことに値いがたき宗祖日蓮大聖人第七百御遠忌にあたり、御正当の十月には第七百御遠忌大法会が一週間にわたり御法主日顕上人猊下の大導師の御もとに奉修され、今また、篤信の信徒二百万人の登山達成をもって、大盛儀を荘厳申し上げ、仏祖三宝尊に御報恩謝徳の誠を尽くすことができましたことは、これ以上の喜びはございません。これひとえに御本仏・日蓮大聖人の広大無辺の大慈悲に包まれてのものであり、御法主日顕上人猊下をはじめ御歴代上人の御威光の賜であると深く感謝申し上げるものであります」(聖教56・11・5)
1981.11.12
文京区総会(東京戸田記念講堂)
秋谷「…何を考えているのか、原島嵩が九日『月刊ペン』の裁判に出廷した。皆が思った通り、お話にならない証言で終始した。彼の天性のうそつきは、幹部であった我々は、うんざりするほど知っている。北條前会長もよくだまされた。私をはじめ多くの幹部もだまされてきた。そうした原島を池田先生だけは、元理事長の子息であるからとして、かばっておられた。そこで、彼は誰からも信用さず、いたたまれなくなって去っていったのだ。そこで、彼は自分の悪をすりかえるために、狂奔しているにすぎないのである」(聖教56・11・14)
1981.11.18
創立51周年記念和歌山大会(和歌山文化会館)
和歌山宣言「御法主日顕上人猊下の御指南のもとに、日本一理想的な僧俗和合で前進する」など四項目(聖教56・11・19)
1981.11.18
月刊ペン裁判「八尋(学会幹部)証言」
『池田大作氏を法廷に出さないで済むよう、笹川良一氏に裏工作を依頼し、事件処理費として北条浩副会長が三千万円を山崎に渡した。それを山崎がどう使ったかは知らない』 千里ニュータウン不正入居事件『千里ニュータウンで、創価学会が、公明党の国会議員、田代富士夫氏や白木儀一郎氏名義で違法に土地の分譲を受けたのは事実です』と不正を認めた」(諸君57・2)
1981.11.20
記念自由勤行会(奈良・明日香文化会館)
池田「…この日蓮正宗、そして創価学会という和合僧の中にのみ、まことの信心修行の正しさがあり、これこそ信心と人生の安全地帯である…」(聖教56・11・21)
1981.11.22
第3回関西総会(大阪・関西戸田記念講堂)
関西宣言「我が関西創価学会は、総本山を外護し、御法主日顕上人猊下の御指南のもとに、世界一理想的な僧俗和合でまい進する」など4項目(聖教56・11・23)
1981.11.23
第1回北陸幹部総会(石川・小松市末広体育館)
北陸創価学会決議「御法主日顕上人猊下の御指南のもとに、日本一麗しい僧俗和合で地域広布に邁進する」など五項目(聖教56・11・24)
1981.11.24
代表者会議(福井・武生文化会館)
池田「…御法主上人猊下に従順しない人は、もはやいかなる理由があるにせよ、正宗の僧俗ではない。これほど根本的な誤りはないからである。この地にも理想的な僧俗和合をお願いしたい…」(聖教56・11・25)
1981.11.27
信心懇談会(岐阜文化会館)
池田「…誰人がいかに謀略をしようとも七百年の伝統を誇る日蓮正宗は、不滅である。御法主日顕上人猊下の厳とした御威徳のある限り、わが正宗の前途は限りなく明るい。そして、また、外護し奉りゆく、我が創価学会も、御聖訓に照らし、広宣流布へのための、いよいよの発展を私は確信してやまない。総本山にあられても猊下の御もとに未来を担う、新しき若き竜象も、いやがうえにも成長なされていると拝する…」(聖教56・11・28)
➡破門後、池田創価学会が宗門に対し謀略の限りを尽くし潰しにかかった実態を見ると、池田の言葉は何の信用性もない。
 
創価学会の社会不正に関する嘆願書 
衆院文教委で却下される 檀徒を始めとした134万人の署名を集めたもの。
1981.12.9
秋谷談話「昭和57年の新年動行会決まる」
今回の新年動行会では、会館運営維持のための伝統として広布基金を募らせていただくことになっています。各地の会館の維持の基本にもなっている広布基金は、広布の牙城は、できるだけ私達の真心と力で維持し、充実させていこう、との趣旨で行なわれているものです。全国の会員同志におかれましては、一年の出発にさいし、ぜひとも多くの方々の真心からの協力を、よろしくお願い申し上げます」(聖教56・12・9)
➡つまり、年一回の財務納金の他、正月勤行会では封筒が容易され基金を募るとのことである。
1981.12.12
富士宮市百条委員会が学会・公明の工作で廃止
1981.12.12
自由勤行会(熊本・白菊講堂)
池田「…日蓮正宗の僧俗であるならば、絶対に御法主日顕上人猊下に従順すべきである。従順せず、いな、弓をひく行為をする僧や俗は、もはや日蓮正宗とはいえない。私どもは無量のざん言や画策を受けながらも、一貫して総本山を外護し奉り、御法主上人猊下に従順してまいった。これが真実の信心であるからだ。それを、増上慢と権威とエゴの野望のために踏みにじっていく僧俗は、もはや、全く信心の二字のなき徒輩であり、そこには、日蓮大聖人の広宣流布をせよとの御遺命に反した邪信の徒と断ぜぎるを得ないのである。皆さまは絶対にそれらに恐れたり、願されたり撹乱されてはならない…」(聖教56・12・13)
1981.12.15
自由勤行会(熊本文化会館)
城南宣言「我らは、総本山を外護申し上げ、もって正法正義に弓を引く輩を許さず、信心正義の王道を歩むことを誓う」 天草宣言「我らは、毎年総本山に参詣することを決定し、大功徳あふれる人生をもって天草の地に貢献することを誓う」(聖教56・12・17)
1981.12.17
聖教新聞 「憂宗護法の為だ」
「正宗の根本義は法主を守ることだ」 御宗門より擯斥された佐々木某等がこんな大義名文を振りかざし聞信の友に悪口、中傷、雑言の限りをつくす言辞を何度聞かされた事か。その言葉の本質は今、恐れ多くも御法主猊下に違背し、血脈を否定する暴挙に走る彼等の卑劣な行動が物語っている。何が憂宗か。何が護法か。陰謀と感情と嫉妬と狼狽以外の何ものでもなかった事は、わずか数年の歴史が証明したではないか。真の憂宗と護法は我らの正義にあった事が、明々嚇々と証明されたわけだ。その黒き運動を続けてきた不順な徒輩は、今、互いにののしり合い雲散霧消に近い・・・
1981.12.20
七百遠忌慶讃二百万登山終了奉告法要(総本山)
池田「時あたかも法灯連綿たる本門戒壇の大御本尊、並びに日蓮正宗の根本義たる唯授一人の血脈を否定せんとする愚人の徒輩が狂い、叫ぶように悪口雑言の限りを浴びせておりますが、我らは、猊下の御指南を体して、悠々とそれらを乗り越えながら、広宣の誓いを果たし、もって歴史に厳と輝く青史をつくりあげたいと念願するものであります。日蓮大聖人の御一生は波乱万丈の崇高なる御一生であられました。今、私どもは、涅槃経にある満身創痍になりながら覚徳比丘を守りし有徳王を鏡として、日顕猊下をお護り申し上げ、広布に立ちて波乱万丈の一生を飾りたいと願うものであります」(大日蓮431) (聖教56・12・21)
 
創価学会 国連広報局NGOに

昭和57年

1982.1.19
猊下発布の「訓諭」
「第二祖日興上人 第三祖日目上人ノ第六百五十遠忌二當リ……本宗ニアッテハ唯授一人ノ血脈相承ニヨル正法正義ノ紹継二於テソノ信仰存立ノ基盤ガアルコトハ申スマデモアリマセン 依ッテ宗内ニアッテ些カナリトモコレニ疑難ヲ加エ或ハ否定スル者ハ正ニ城者破城ノ輩デアリ此等ハ須ク迷執ヲ打破シ深ク反省懺悔ヲナスベキデアリマス」(大日蓮432) (聖教57・1・22)
血脈付法の御法主日顕上人のもとに団結(聖教57・1・22)
1982.1.21
第268回本部幹部会(千葉文化会館)
秋谷「…御法主日顕上人猊下より訓諭が発せられた。これは、血脈付法の日顕上人猊下のもとに、さらに僧俗和合、異体同心して、広宣流布に邁進しなさいとの訓諭であると拝するものであります……この日顕上人猊下に対する血脈相承を否定し、あまつさえ信仰の根本義を裁判に訴えようという正信会の僧侶は断じて許すことはできない。私共は、あくまでも御法主上人猊下の御指南のもと、総本山を外護申し上げることを新たな決意でお誓い申し上げ、日顕上人猊下をお守りし、池田名誉会長のもと仏法の正義正道を護りぬくために一歩もひかぬ戦いを展開してまいりたい…」(聖教57・1・22)
1982.1.22
宗会議員16名「決意書」を発表
「近時、正信会と称する一部の僧侶の中に、無意にも大聖人の法体の大御本尊をも究極の本尊にあらずといい、第六十六世日達上人による金口嫡々の血脈相承と、第六十七世日顕上人の御法主としての地位、並びに管長職を否定する言動を吐き、加えて世俗の訴訟の場に提訴するが如き反逆行為をなす者が輩出するに至る。かかる言動は全く大聖人、日興上人以来の信仰に反する師敵対の邪義、異説である事は、もとより論をまたない。日蓮正宗七百年の歴史において、これ程の大謗法は無いと断ぜぎるを得ない。故に私ども宗会議員一同は、かくの如き本門戒壇の大御本尊と、本宗伝統の唯授一人の血脈相承をも否定して、何等恥ずる事なき徒輩を断じて許す事は出来ない」(大日蓮432)(聖教57・2・9)
1982.1.24
板橋広布25周年記念総会(東京・創価大学)
池田「…正宗における根本は、唯授一人の血脈である血脈相承の御法主上人に随順しゆくことこそ、正しい僧俗の在り方である。この一点を誤れば、すべての根本が狂ってくるのである。創価学会は、御歴代の御法主上人に随順してきたがゆえに、永遠に栄えゆくことは間違いないと確信する…」(聖教57・1・25)
1982.2.5
聖教「血脈否定の僧十一人を損斥」
「今回処分された十一人は、いずれも宗内の活動家僧侶によって構成される『正信会』と称する一派の中央委員である。彼らは、あろうことか御法主日顕上人猊下の血脈相承を否定し、これを前提として昨年一月には日顕猊下を相手取って大石寺の代表役員、及び日蓮正宗の管長、代表役員の地位不存在確認の本訴とそれらの職務執行停止の仮処分を静岡地方裁判所に提訴するに及んでいる。血脈相承は宗旨の根幹をなすものであり、それに疑義をさしはさむこと自体、信心の大道からはずれ、正宗僧侶に全くあるまじきことである。まして、そのことを裁判に訴えるなど、言語道断といわぎるをえない」(聖教57・2・9)
1982.2.10
記念勤行会(茨城・日立会館)
池田「…絶対なるものは、大御本尊のお力である。また、絶対なるものは、御書である。そして、あくまでも、仏法の根本の御指南は、御法主上人猊下であられる。御法主上人猊下の御指南に従わぬものは、もはや、正宗の僧でもなく俗でもない。心して、この一点を忘れず、あとは何も恐れず、強くなって、我が正道を歩んでいただきたい。ともあれ、この地の僧俗の和合を心からお願いする。再び、同じ轍を踏むことは許されない。それは、御法主上人猊下の御指南に反するからである…」(聖教57・2・11)
1982.3
学会グループによる金の延べ板窃盗事件
秋田県の同和鉱業から3000万円相当の金の延べ板を盗み売りさばいていた事件。犯行グループ全員が学会員だった。 
1982.3.8
日興御回忌祝賀会(総本山)
池田「この日興上人がおられましたが故に、富士の清流は七百年の苦難の歴史にもいささかも穢されることなく総本山御歴代の御法主上人により一器から一器へと法水潟瓶されてきたのでございます ‥昨今、こともあろうに、唯授一人の血脈付法を否定せんとする一部の輩の策謀がみられることは、御開山上人の厳格・清浄な正法護持の御精神に照らして、断してあるまじき所業であります…」(大日蓮434) (聖教57・3・9)
1982.3.19
聖教 教学のベージ「彼岸について」
「彼岸会の日に、日蓮正宗の寺院に参詣し、御本尊に御供養し、先祖のために塔婆を立てて回向していきたいと思います。他宗の彼岸法要は、本人の積善にも先祖の供養にもなりません」(聖教57・3・19)
1982.3.20
聖教 社説「彼岸の意義について」
お彼岸の日には、先祖の追善と自身の彼岸を真剣に願って正宗寺院に参詣し、御本尊に御供姜申し上げ、塔婆を立てて回向し、広布への強き決意を新たにすることが望まれる」(聖教57・3・20)
1982.3.22
関西青年平和文化祭(長居陸上競技場)
1982.3.28
第5回金城会総会 第1回波濤会総会(東京・立川文化会館)
猊下お一人が仏法の師
こで大事なことは「水の信心」を貫きとおしていくことである。一時の活躍をみせる「火の信心」であってはならない。その信心とは、本門戒壇の大御本尊を信ずることである。総本山を中心とすることが根本であり、御法主上人猊下お一人が仏法の師でいらっしゃるのだ(『広布と人生を語る』第3巻)
1982.4.1
関西創価小学校開校
1982.4.7
池田 「観桜会」で本山の桜20本伐採
昭和57年4月7日、池田大作が「観桜会」と称して、常来坊へ日顕上人をお招きした。当日、あいにくの雨になったところ、なんと池田は部下に命じ、20本近くのソメイヨシノを根本から切り倒して常来坊に運び込み、にわか仕立ての桜園を室内にこしらえたのである。【会を報じた聖教新聞写真】→
1982.4.9
4月度東京支部長会(東京戸田記念講堂)
秋谷「…正信会と称する御法主日顕上人猊下の血脈を否定している二十六人の僧侶が五日付で擯斥処分にされた。我らはますます総本山を外護し、御法主日顕上人猊下をお護り申し上げゆく名誉会長とともに広宣流布へ威風堂々の前進を図っていきたい…」(聖教57・4・10)
1982.4.25
「大田の日」記念の集い(東京・立川文化会館)
池田「…現在も、日達上人御遷化の後、同じように、御当代御法主上人を非難している徒がいる。私は、命を賭して猊下をお護り申し上げる決心である。彼らは、以前には、総本山が根本であると私どもを叱咤しておきながら、いまはてのひらを返して自らが、その根本を破壊しているのである。言語道断もはなはだしい。私どもは変わらぎる信心できたし、変わらぎる信心でいけばよいのである…」(聖教57・4・27)
1982.5.11
聖教 相承否定の群徒とは断固戦う
「学会においては、既に一昨年九月『創価学会はいかなることがあろうとも、総本山第六十七世御法主日顕上人猊下の御指南に従い奉り、あくまでも大御本専への絶対無二の信心を貫き通し、総本山を外護申し上げ、僧俗和合して広宣流布に邁進する」との県長会決議を採択。それをうけ、各県においても県決議等を行ってきているが、今回の御僧侶方の決議の趣旨をよく理解し、ますます御法主上人猊下のもと一致団結、僧俗和合して、宗祖日蓮大聖人の御遺命たる広宣流布へ力強く進んでいくことが大切であろう」(聖教57・5・11)
1982.5.20
第272回本部幹部会(千葉・市川市市民体育館)
副会長に岡安博司、高沢正の2名が就任
◇秋山婦人部長、浅見男子部長、太田青年部長、佐野女子部長が就任 (聖教57・5・21)
副会長の総数は36名に
1982.6.25
創大出 判事、家出少女との交際で辞職
学会の「法学委員会」出身の大分地裁判事補・千葉隆一は家出少女との交際で辞職する。
1982.6.27
7・3記念北海道幹部会(北海道・小樽文化会館)
池田「‥北海道広布といえば、まず思い起こすのは、『小樽問答』である――何か事件が起こると、必ず、退転者、反逆者がでる。大なり小なり、どこの世界においても、そうであるかもしれない。日蓮大聖人が御入減ののち、日興上人に師敵対した五老僧がいた。近くは、日達上人の御遷化ののちに、御当代御法主日顕上人猊下に師敵対している正信会が出ている。在家にあっても、その方程式は、また同じである…」(聖教57・7・2)
1982.7.14
青年部員 日蓮正宗深遠寺で5人殺傷
29才の青年部員は同寺に乱入、住職の妻やお手伝いさんを次々と刺し、住職の5才の長女、3才の三女、21才のお手伝いさんが死亡する事件が起きる。
1982.7.15
聖教社説「盂蘭盆と真の追善供養」
日蓮正宗の各寺院の孟蘭盆会では、草木成仏の法理に基づいて塔婆を立てて先祖の菩提が弔われ、懇ろな追善供養が行われる」(聖教57・7・15)
 
本格的な財務開始
1982.7.24
関東会第1回研修会(長野研修道場)
池田「…御本尊を御認めあそばすのは、御法主上人御一人であられる。令法久住という基調を根幹とし、我々は広宣流布に邁進するのである。いくら広宣流布といっても、御本尊の御認めがなければできない。我々はあくまでも総本山根本、御法主上人厳護の信心で進んでまいりたい……思えば、私どもは大変な福運をもつて生まれた。代々の御法主上人のもとに、立宗七百年祭、さらに熱原法難七百年、また大聖人第七百御遠忌等々、数多くの佳節を慶祝することができた。さらには、大石寺開基七百年も迎えることができる。ここで立宗七百五十年を目指すことは、まことに意義深いといわねばならない…」(聖教57・7・26)
1982.7.30
伸一会第10回研修総会(長野研修道場)
池田「…今、宗門においても仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧俗が出たことは、まことに悲じむベきことである。これは恐ろしき謗法であり、真の日蓮大聖人の仏法を信解していない証左なのである。血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はありえないのである。広宣流布そして正法正信の直系を離れ、我見の教学を論じ、背信の一群をリードしたとしても、それは異説邪道である…」(聖教57・7・31)
1982.8.20
第275回本部幹部会(静岡・浜松平和会館)
秋谷「…週刊誌による学会攻撃は、昔からあったともいえるが、一段と卑劣になったのは五十二年ごろからである。学会を攻撃し批判するために、まず、いかにも週刊誌がとびつきやすい、俗受けしやすい話としていわゆる″リンチ事件〃とか〃口紅事件″と名づけて極めて意図的な悪質な情報が流され、週刊誌はそれを面白おかしく書き連ねた。また″参詣者ただ今ゼロ″という、あたかも学会員が一人も総本山に参詣していないという記事を掲載し、宗門と学会の離間をはかる策略の手先にのって攻撃を始めた。(聖教57・8・22)
1982.9.6
「広宣流布の時には、参議院議員、衆議院議員もいてさ、・・・・要所要所を全部ね、学会員で占める」聖教新聞
1982.9.10
第一回北陸功労者の集い 石川文化会館
日蓮正宗法難の歴史 「法難は、正法正義を弘めていくうえでの宿命といってよい。われわれは法難史を思うとき、そうした誉れ高き先達が、あるときは生命を捨てて正宗を守りぬいてきたことを忘れてはならないと思う。」昭和57年9月10日 広布と人生を語る第四巻
1982.9.17
ペン裁判に渡部通子出廷
➡池田と関係したことから、学会最高幹部、参議院議員となる。
1982.9.19
「第二回世界平和文化祭」西武球場
冷たい雨の中、会員は演技。池田氏はストーブにあたりながらの観戦
1982.10.9
1982.10.12
正本堂建立10周年記念総登山(総本山)
池田、日顕猊下から「賞大法護持広布並世界平和貢献之功」脇書きの「賞与御本尊」を賜わる(聖教57・10・13)
正本堂建立十周年記念祝賀の集い 
総本山大石寺・大書院 「総本山に秋冷の気満つる本日、一閻浮提総与・独一本門戒壇の大御本尊御建立の意義深き日に、血脈付法第六十七世御法主日顕上人猊下の大導師を賜り、全国の信徒の代表一万余名がこの歴史的な御開扉の荘厳な儀式に参詣列座することができえまして、地涌の菩薩の眷属たる私どもにとり、これに過ぐる歓喜と栄誉はございません。」昭和57年10月12日 広布と人生を語る第四巻
1982.10.15
ペン裁判 第27回公判 
池田氏出廷(28回にも池田氏は再び出廷)
赤坂の芸者には3年間で4~5回会っていたことを池田氏自身が語り、また、第一庶務をはじめとした女性を各地研修所に頻繁に連れて行くという社会常識を欠いた行動を裁判長からたしなめられた。 渡部通子に関して、女子部の体験集の中で彼女が池田氏とのことを書いたものが読み上げられる。 裁判中、学会がペン社との裏交渉を行い、仲介役の笹川良一氏に3000万円を渡したことが、不可解であると裁判長に指摘される。 「(通子が)一人で泣いているとき、トントンと階段を上がる音が聞こえてきて、池田先生が上がってきて、私を抱きしめてなぐさめて下さった」(私の体験・人生の並木道)
 
学会側 池田氏の行動記録を提出。
池田氏の怠慢生活、勤行をろくにしていないことが証明される結果に。
池田会長の怠慢勤行の実態発覚
1日目、朝は13時30分に、夜は24時に唱題。
2日目、朝は10時30分から、夜は16時50分から20分弱。
3日目、朝、夜不明。
4日目、朝、夜不明。
5日目、朝不明、15時に唱題、夜不明。
6日目、14時25分から10分間で勤行、夜不明。
7日目、朝、夜不明。
8日目、朝不明、夜は22時20分から幹部と。
9日目、13時15分から5分間で勤行、夜は23時。
10日目、朝は無し、夜は17時30分から。
11日目、朝は11時10分、夜は不明。
また、池田氏は本山に毎月のように参詣していたが、丑寅勤行への参加は一度も無い。【資料】➡
 
池田の勤行エピソード
 「あれはなまけ者です。人がみていなくって利益にならないようなことは徹底して手抜きする。昔、かね(池田の妻=通称・香峯子)さんのお父さん(白木薫次)が『勤行をしないしフトンの中でごはんを食べたりしてしょうがない』とこぼしてた。ありや、信仰心のない軽薄者でした、ずっとね」  
 大作とかねの結婚は五二年五月三日だったが、その二か月ほどあと。かねが戸田の指導を受けるため、当時、国鉄中央線市ヶ谷駅のそばにあった戸田の経営する金融会社「大蔵商事」へやってきて、こう訴えたと元学会幹部は話す。  
 「じつはウチの主人は朝晩の勤行をやりません。五座(座)三座(日蓮正宗信者としての必須の読経)もやりません。いつもお題目三唱で済ましてしまいます。私がそのことをいうと、『おれは特別だからやらなくてもいいんだ』と答えます。ウチの主人は本当に特別なんでしょうか」戸田は「何?」といって絶句したという。『池田大作・金脈の研究』 第三書館・野田峯雄
1982.10.27
池田氏 山崎正友恐喝事件裁判に出廷証言
1982.11.8
高知の檀徒ら「特別財務」返還訴訟で勝訴(高知地裁)
1982.11.15
継命 三億円恐喝事件裁判「池田氏の二枚舌露見」
「池田大作創価学会名誉会長は、10月20日と27日の両日、山崎正友元同会顧問弁護士を被告とする『三億円恐喝・五億円同未遂事件』公判に証人として出廷して証言した……池田氏は、これらの法廷でも、池田語録を手に鋭く追求する被告弁護側の反対尋問に『記憶にない』『わからない』を連発、ときには居直る証言を行なった。しかし、否定するあまり自語相違をきたし、顔を紅潮させる場面も。とくに27日の公判では、弁護側から創共協定に関する『北条報告書』をつきつけられ、故日達上人をだましていたことが明らかになった」(継命57・11・15)
1982.11.19
学会(木村靖) 晩聲社の「社長会記録」裁判で無条件取り下げ
1982.11.23
秋谷談話「『創価新報』創刊について」
「『創価』の名を冠し『創価新報』として本格的に青年部機関誌がスタートすることは、青年部の歴史に画期的な一ページを刻むことになろう。今の世の中に必要なものは、確たる理念に基゛ついた正しい主張であり、広布推進のうえからも、仏法を広く理解せしめ、誤れる邪悪な言論とは戦う毅然たる主張が要請されている。その意味から『創価新報』の役割は極めて大きいし、発展を心から願うものである」(聖教57・11・23)
 
池田写真展「自然との対話」始まる
実際は、池田が構えたカメラの後ろから、聖教カメラマンが撮っていたもの

昭和58年

1983.1.1
『創価新報』発行
1983.1.27
港・千代田区幹部会(東京・麻布文化会館)
池田「‥私も長く会長職にあったし、少々体も疲れてきたので、昭和五十四年四月に、北条さんに会長職をゆずった。北条さんも年配であり、早くゆずってさしあげたかった。そのころ、私は懇意にしていた著名な財界人と語ったことがある。私は、後継者が育ったし、体も強くないし、パトンタツチすることにしましたといった。すると氏は、大変おどろいた様子で残念がっておられた‥」(聖教58・1・30)
1983.2.9
聖教社説「信心破る組織利用は厳重に注意」
「今日、隆々たる発展を遂げている創価学会の組織は世の驚異であり、それだけにこの学会組織を私利私欲のために利用しようとしたり、商業ベースに乗せて金儲けの手段にしようとする魔手もまた多い……問題は、販売組織を拡大するに際して、学会幹部である自分の立場を利用したり、同志の絆に甘えてうまく稼ごうとしたり、あるいはあたかも学会本部が認めているかのような言動を示して会員に販売したりする場合である」(聖教58・2・9)
1983.2.13
ヒロエ・クロウから日顕猊下に娘の結婚、近況などの報告が書かれた手紙が届く。【資料】➡
➡後年、ヒロエ・クロウが日顕猊下シアトル事件として陥れる理由は考えられない。
1983.2.18
SGI 国連経済社会理事会のNGOに
1983.2
学会 公立学校で違法に上映
学会は先に行われた「世界平和文化祭」の記録映画を公立学校で違法に上映。全国で路上や個人宅などあらゆるところで上映会が開かれた。
1983.3.9
暴力団組長が池田氏と竹入公明委員長に内容証明付き郵便を送る
「富士桜墓園.に関わる仕事を学会から引き受けたと旨が書かれる」 【資料】➡
告白本 後藤忠政元組長著『憚りながら (宝島社文庫)』➡
1983.3.15
兵庫県最高会議(兵庫池田講堂)
池田「‥戸田先生一行は、二月二十八日に着山。あくる三月一日には法華本門大講堂落成慶讚の大法要が盛大になされた。その折、先生は私に『この一カ月間は、絶対に側から離れてはならない」と厳格に言われた。そこで私は、三月の末まで、指揮本部にさせていただいた理境坊にあった。先生は二階に、私共は一階で、朝な夕な先生をお守りし、かつ、すべての連絡の中心責任者として、お側でつかえさせていただいたのである……三月一日の大講堂落慶の儀式には、東京都知事、静岡県知事等の来賓を迎え、全国の同志数千人が参加し、日淳上人の大導師を賜って、宗門史に残るであろう、晴れ晴れとした式典が行われた。戸田先生のお体は、非常に衰弱したご様子で、私が片腕を抱えながら、その日の式典の会場へ向かった。その大講堂の式場に向かうエレベーターの中で、先生は『これで自分の仕事は全部終わった。いつ死んでもよいと思っている。あとは大作、頼むぞ』と、ほほえみながらも厳格な口調でおっしやったことが、胸に突きささってはなれない。この時、戸田先生五十八歳、私は三十歳となっていた‥」(聖教58・3・16)
➡三代会長は皆で決めろが遺言であり、エレベーター相承は池田のねつ造。
1983.3.30
静岡地裁 管長訴訟で自称正信会の請求を却下
◇日蓮正宗代表役員・管長の地位に関する訴訟の判決について「このたび、静岡地方裁判所において、正信会を称する者達が、日顕上人猊下を相手として提起していた訴訟について判決が下され、争訟の本質が血脈相承という極めて高度な宗教的問題に関わる事柄であるという判断に基づき、裁判所の介入すべき問題ではないとしての、いわゆる門前払いの却下判決となっており、宗門としてはこれまでに当方が訴訟の中で主張して来た事が全面的に認められたものとして、極めて正当な判決と受けとめております」(院第略) (大日447)
1983.3.31
聖教 擯斥僧の理不尽な訴えを却下
金口嫡々唯授一人の血脈相承は日蓮正宗の命脈中の命脈である。それに疑義をさしはさむこと自体、大謗法であるのに、それを裁判に訴えるなど、信仰の筋道から根本的に逸脱しているといわざるをえない」(聖教58・3・31)
1983.4.30
第一回「創価草創の集い」(東京会館)
池田「‥総本山が日蓮正宗の根本道場であり、御歴代の御法主上人が仏法の師であられることは当然である。それを根本とし、我々は戸田先生のもとに集い、青春の生きがいを炎のごとく燃やし戦ったのである。仏法のことも、信心のことも、社会のことも、さまざまな人生のことも、すべてを教わった。それがあったがゆえに、今日の我々があるといっても過言ではない…」(聖教58・5・1)
1983.6.3
第一回SGIドイツ総会
1983.6.8
富士宮署 後藤組壊滅対策本部設置
この対策本部設置により、組員60名近くが連行される。組長は創価・公明が仕組んだものと判断。
1983.6.8
池田 チャウシェスク大統領と会談
ルーマニアの 独裁者チャウシェスク大統領に対し「今後も世界の指導者としてのご活躍とご健勝を祈ります」と賛辞。「ルーマニア建国の指導者、世界平和に尽力され、ご努力してくださっているチャウシェスク大統領に心より、感謝の意を表し、私の講演を終わりたい」(「聖教新聞」六月九日付) 「大統領は愛国主義者であり、平和主義者であり、民族主義者であることがよく、理解できました」聖教新聞六月十日付 同大統領は後年、民衆の手で公開銃殺される。
➡チャウシェスクとの会見は後に歴史から抹消されている。
1983.6.10
ペン裁判 一審判決 
被告・隈部大蔵に罰金20万円に下す
判決文の最後で「学会組織あげての当該出版社への妨害活動の事実を認め」、また「被告人自身、これまで真摯にジャーナリスト生活を送ってきた」ことを付け加えている。 昭和58年6月10日 東京地方裁判所刑事第15部 裁判長裁判官 秋山規雄 59年7月18日上告するが棄却される(裁判は被告人・隈部氏の死亡という形で幕を降ろした。)
1983.6
サラ金で借りて財務
森田理事長が緊急談話「最近、新聞等で話題になっているサラ金の問題についても、借り易いので利用する人も多いが、家庭の崩壊などの悲劇を招いては、断じてならない」本部幹部会で。
「阪神サラ金被害者の会」に寄せられる被害相談の6割が学会員からだった。
➡幹部がサラ金から財務を行う傾向はその後も変わらない。
1983.6.11
第一回SGIスペイン総会
1983.6.14
第一回SGIスイス総会
1983.6.26
第一回SGIオランダ総会
 
参院選14名当選
1983.7.15
聖教社説「真の回向と盂蘭盆会」
「現在、世間一般で行われているお盆の行事には、仏法の本義が失われており、追善供養にならないのみでなく、かえって亡き先祖の苦しみを増す結果になっていることを知らなければならない‥‥日蓮正宗の各寺院においても盂蘭盆会が修され、草木成仏の法理に基づいて塔婆を建てて先祖の菩提が弔われ、ねんごろな追善供養が行われる」(聖教58・7・15)
1983.8
聖教新聞社 池田専用の9億円をかけた300坪の貴賓室を改装
1983.8.8
国連平和賞受賞(前年は笹川良一が受賞)
1983.8.16
第四回SGI総会 札幌文化会館 「日蓮正宗の仏法は、すべての次元の根本である。この仏法を純粋に信じ、確実に研鑽し、後世に伝えていかねばならない。それがわれわれの本来の責務である。」昭和58年8月16日 広布と人生を語る第五巻
1983.8.29
第1回副会長懇談会(聖教新聞社)
池田「…ここ数年来の宗門をかく乱し学会を混乱させようとたくらんだ陰謀はすべて私どもの正義が証明され勝利に終わった。これは大御本尊の御威光はもとより御法主日顕上人猊下の御慈悲のたまものである。そして皆さま方もよく頑張ってくださった。これからは、今回の画策を見抜いたと同じように、決して油断することなく、再び僧俗和合の完ぺきを期していかねばならない……御法主日顕上人猊下は、未来永遠のために、若き法材(竜象)、若きお弟子達の訓育に御心をくだいておられる。私どもも将来の大宗門を担いゆかれる、この御法主上人猊下の若きお弟子の方々のご成長を心から祈るとともに、盤石なる御宗門の未来のために、お護りし、見守っていかなければならないのである。そのためにも、多くの寺院を建立申し上げ、もって盤石なる『僧俗和合』と『令法久住』と『広宣流布』ヘの法城を整えさせていただく必要があるわけである……幹部の皆さま方の、会館を一日も早く地域広布のために建てたいという気持ちは、よく分かる。だが、令法久住のためには多くの寺院を今こそ建立、寄進申し上げ、もって大聖人の御遺命にお応え申し上げなければならないと私は強く申し上げたい。確かに現実はなにをするにも、財政的な問題があるが、それは、御本尊より大功徳を受け、私どもが更に更に働いていけば、一切が解決していくと私は、確信したいのである。また、これが信者の外護の精神であり、これまた学会精神であると申し上げたい」(聖教58・8・30)
1983.8.14
第三回世界平和文化祭(札幌市・真駒内屋外競技場)
1983.9.14
ウィーンで「核兵器ー現代世界の脅威」展
1983.9.23
聖教社説「彼岸の意義について」
「日蓮正宗寺院に参詣し、御本尊に御供養申し上げ、塔婆を立てて、先祖の回向をするとともに自身も信心の成長をはかりたい。そして彼岸の真義をふまえて、広布に精進し功徳を積み成長していくことが、先祖への最高の報恩となることを銘記したい」(聖教58・9・23)
1983.10.31
池田 山崎三億円裁判に3度目の証人出廷
1983.11.2
東京富士美術館 開館
池田氏が海外で買い集めた美術品について、美術評論家は「正直いって、あそこは骨董屋に近く、作品の約7割は贋物」と酷評。
1983.11.14
聖教 ノリエガ将軍、パナマ第一の景勝の地を「池田展望山」と命名
「パナマ運河の入り口に浮ぶ太平洋上のフラメンコ島。美しいパナマ運河を望むここからの展望は、パナマ第一の景勝といわれており、この島が、このほど『池田展望山(ミラドール・イケダ)』と呼ばれることになった。これは、パナマのマヌエル・A・ノリエガ将軍により命名されたもので、同地は、昭和五十六年二月、池田SGI会長がパナマを訪れた際、同将軍と会見した場所であり、SGI会長との友情に満ちた平和会談の思い出をとどめるものとなったわけである……また、同将軍からは将軍就任を記念した時計付きの盾と、就任式の記録テープも、SGI会長へ贈られ、このほど届けられた」(聖教58・11・14)
1983.11.18
聖教座談会「たゆみなき広布の歩みを語る」
総本山外護・3代で永遠の基盤
和泉覚――池田先生は厳然として総本山を厳護し抜かれてきました。創立50周年の時、御法主日顕上人猊下から『不思議なる会や生まれて五十年 妙法さかう不二のふもとに』という御歌を賜りましたが、確かにしみしみと実感されます‥‥
辻武寿――学会がこの一年間、広布の前進に大回転することができるとともに、御宗門は御法主日顕上人猊下のもと、かつてない隆昌の足跡を刻まれています‥ ‥
秋谷栄之助――池田先生の発願による全国各地の多数の新寺院建立について、現在、着々と準備を進めております。登山会も、毎年発展し、充実してきております……
山崎尚見――傍聴した人がいっていましたが、名誉会長は、終始、悠然とした姿で、一つ一つの尋問にも明快な論旨で的確に答えていた、と。被告人側は、山崎の犯罪隠しのために、全く根拠のない虚構を作り上げてきたのですが、名誉会長は、その虚構の構図を鋭く客観的な事実を通し、彼らの″作り話″をことごとく突き崩していった。先生の気追に圧倒されて、被告人側の弁護士が尋問するのに苦慮していたようです‥‥
森田一哉――正信会にしてもそうです。日顕上人猊下に敵対して、何が″正信″ですか。 ″狂信″ですよ。一連の裁判でも、宗門側が全面的に勝訴し、法律上においても正邪がはっきりしてきているのです」(聖教58・11・18)
 
社説「創立53周年の佳節に誓う」
「今日の広布の伸展の姿は、御本尊の御加護であり、血脈付法の御歴代上人の御高徳の賜であり、正法興隆への大慈大悲に報恩感謝することを忘れてはなるまい(聖教58・11・18)
1983.11.22
高知の「特別財務返還」裁判を和解に持ち込む
学会はこの裁判の敗訴を恐れ702万円全額の返済と解決金1000万円を支払うことで檀徒側と和解。
1983.12.4
第一回SGI香港文化祭
1983.12.7
記念勤行会(福岡・九州平和会館)
池田「‥日蓮正宗では、七百年間、御開山日興上人から御当代の御法主上人に至るまで、また未来にわたって、全人類のため、世界平和のために、法灯連綿と丑寅勤行をなされてきた。まことに荘厳であり素晴らしい総本山であられる。このような教団は他にないと信ずる。教義の上からも、また、この事相の上からも、いかに日蓮正宗の仏法が偉大であり、日蓮正宗の御本尊が正しいかということが、明瞭であると申し上げたい。よく学会は排他的、独善的であるとの批判があった。しかし本当にそうであれば、こんなに広まるはずがない…」  
「私も三十六年の信心となった。弱い弱い体が、ただの一度も入院することなく、冥益を受けている。また、ためにする識言も多々あった。私は、ぜんぶそれらを悠々と乗り越えてきた。私は御聖訓を信じて生きぬいてきたつもりである。皆さんのなかには、三十六年間信心を続けてきた人はいないと思う。ゆえに、先輩として確信をもって、日蓮正宗の仏法は正しいと申し上げられる。文句のある方は、三十六年間、信行学をやりきったうえで、言ってください。(大笑い)」 (聖教58・12・9 広布と人生を語る第五巻)
1983.12.16
元学会員 替え玉投票を暴露
大B担まで務めた兵庫県の渡辺米子さんは赤旗に違法な選挙活動の手記を載せた。 「替え玉投票の最初の体験は昭和38年の神戸市議選、兵庫県議会選挙の時です。私は組織の同志と経験し、組織のなかで信心が弱く、投票日に帰ってこない人の投票入場券を集め、公明党候補当選のために、みんなで替え玉投票をしました。架空の住所移動は昭和46年の神戸市議選、兵庫県議選の時です。当時の公明党県議候補は今回(昭和58年)衆院選挙兵庫三区から立候補している駒谷明氏でした。どんなことをしても駒谷候補を当選させよ---との強い指示が出ました。私達夫婦は当時、公明党が候補者をたてなかった神戸市生田区(現中央区)相生町四の八一に住んでいましたので、駒谷候補の選挙区である兵庫県湊町二の三一有本宅に住民票だけをこっそり移しました。有本さんも学会幹部(副B担)でしたので、バレる心配はありませんでした。私は上部から替え玉投票や住民移動をやったものは絶対に他言してはいけない、自分の胸にだけしまっておくこと、もし他人に口外すれば、ご本尊様もお見通し、冥の照覧といって必ず仏罰があることを指導されました。もし、選挙違反で捕まっても二十四時間無言でおれば、ご本尊様のお加護で必ず助かる、上部が警察に働きかけてくれると教えられました。創価学会というところは公明党がある限り、政教分離は絶対にできないところです。公明党は見かけだけで、すべて創価学会による選挙です。池田大作名誉会長が陣頭指揮をとっています。信心を選挙に利用する創価学会は、日蓮大聖人の仏法に反していると考え、退会しました。 ※この手記は住民票などを照合した結果本当であることが証明された。
1983.12.16
宗務院通達
◇大韓日蓮正宗法華講仏教徒会の組織を解消 「日蓮正宗宗務院からこのほど、大韓日蓮正宗法華講仏教徒会の組織を解消する旨の通達が出された。この院達の趣旨は、同会が昭和54年4月、韓国における一講中として結成されたものであり、当初は法華講としての活動も行っていた。しかしその後、日本のいわゆる『正信会』の輩にひきいられる別組織の方に移っていき、仏教徒会としての活動は一切なくなり、その組織および設立の目的も完全に失われていた。そこで宗務院としては、その実質に照らし、無用の混乱を防ぐため、同会の組織を解消し、あわせて、今後その名称の使用を禁止する措置を講じた――というものである」(聖教58・12・16)
1983.12.19
衆院選で59議席
1983.12.20
実修寺新築落慶法要(東京)
日顕猊下「昭和四十三年と申しますと、既に皆様も御承知のように、その一年前の四十二年に正本堂の建立発願式が行われ、そして四十三年の十月には着工大法要が総本山において、日達上人猊下のもと、池田総講頭の発願の次第によりまして行われたのでございます。その年頃はまた、創価学会より多くの寺院を建立・寄進をしていただいた時期でございまするし、記録によれば四十二年には十八箇寺、四十三年が二十七箇寺建立されております。また四十四年にも十数箇寺が建っておりますが、それらにおいてその三箇年ほどのことについてみましても、実は残念なことにその三分の一強の寺院が今日は、宗門のその後の色々な問題におきまして宗門の寺院としての機能を発揮できないままに、宗門に背いて既に日蓮正宗の僧侶ではない者どもの蟠踞するところとなり、そのままの次第になっておるのでございます。これはひとえに、宗門の本義であるところの血脈の法を疑うところの信不具足を根本とし、また令法久住、広宣流布とい日蓮大聖人、日興上人以来の御指南を忘れて、つまらない理由をつけて枝葉のところに執われておるというような形があるのでございます」(大日蓮456)(聖教58・12・21)

昭和59年

1984.1.2
池田氏 法華講総講頭に再任される
1984.1.12
大Bから地区制に移行
1984.1.23
池田の末弟・正利 所沢市で死亡(26日に葬儀)
正利氏は生前「ああいうのは嫌いなんだ」と学会を嫌っていた。 しかし、当日の葬儀は1600人にも及ぶ会員を集めた参列者の中、学会による大葬儀が行われた。なお池田大作は参列していない。
1984.1.26
不戦への提言
私どもは、これまで恒久平和主義を掲げた日本国憲法を一貫して守り抜く姿勢をとってまいりました。それはたんに日本一国のためというより、平和憲法の精神と理想とを、あらゆる国々、あらゆる民族の心に植えつけ、戦争放棄の人間世界をひろげることこそ、恒久的平和への確かな道と信じているからであります。私が日本国憲法の擁護運動を若き青年、学生に託したのは、憲法自体が国家という枠を超えて人類全体に対する信頼感に貫かれているからにほかなりません。第九条を憲法に盛り込むことによって、歴史の流れを先取りした英知と先見は、やがて歴史がはっきりと証明していくでありましょう。(第八回「SGIの日」 池田発言) 
1984.2.15
ミラドール・イケダ(池田展望台)除幕式(パナマ運河・フラメンコ島)
「二人(編注・池田、ノリエガ将軍)は、これまで幾たびも親しい交流・懇談の機会を持ち、将軍はSGI会長の国際的な平和の足跡を熱知、市民の幸せを願って行動する日々と、その指導に深い共鳴を寄せていた。同将軍によって命名された『ミラドール・イケダ』は、そうしたSGI会長との友情に満ちた平和会談と、訪島の意義を未来にとどめるものである」(聖教59・2・17)
1984.1.26
第一回SGIブラジル大文化祭
1984.2.28
一乗寺新築落慶1周年記念法要(サンパウロ市)
池田「仏・法・僧の三宝を敬い、供養申し上げることは、信徒としての根本であるとし、仏宝とは御本仏・日蓮大聖人、法宝とは南無妙法蓮華経即ち本門戒壇の大御本尊であられ、僧宝とは第二祖日興上人の御事であられることを述べた。そして南無妙法蓮華経の大法は、第三祖日目上人、御歴代の御法主上人へと受け継がれ、現在では御当代御法主日顕上人猊下に御相承なされていることに言及。本門戒壇の大御本尊を信し、仏祖三宝尊への報恩感謝が、信心の根本となると語った」(聖教59・3・1)
1984.3.17
聖教 お知らせ「墓石の作り方について」
「最近、新たに墓石を作るにはどのようにすればよいでしょうかとの問い合わせがあります。日蓮正宗では、墓石に所属寺院の住職が『妙法蓮華経』または『妙法』などとしたためた御題目を刻むことになっており、日蓮正宗の僧侶以外の人の筆になる御題目を墓石には刻みません。また、御題目の上に家紋等を刻んだりすることもいたしません。もし家紋を入れたい場合は石塔の台石などに刻むことになっています。したがつて、新しい墓石を立てる場合には所属寺院に相談し、住職に墓石への御題目の染筆をお願いすることになります。その御題目を墓石に刻むのが正しい墓石の作り方です」(聖教59・3・17)
➡現在の学会墓苑の墓石には誰が書いたものか「妙法」だけのが刻まれている。
1984.3.20
聖教 社説「真の回向とは何か」
日蓮正宗以外の宗教では成仏への善根は積めない。それどころかかえって不幸への悪業を積んでいく。そうしたものをもつて回向すれば、精霊の生命はますます苦しむ……日ごろ、折伏、唱題で善根を積み、勤行の時は今は亡き方々の幸せを祈るとともに、お彼岸の日には、とくに諸精霊の心情を思いやり、日蓮正宗寺院に参詣し、塔婆を立てて、回向していきたい。とともに、彼岸の意義を銘記し広布に一層の精進を決意したい」(聖教59・3・20)
1984.3.31
大石寺開創七百年記念慶祝準備会議 総本山大石寺宗務院
七百星霜、法灯は連綿として謗法厳戒の御掟を貫き、一点の濁りもなく唯授一人の血脈法水は、嫡々の御歴代御法主上人によって伝持せられてまいりました。いまここに大石寺開創七百年の出発にあたり、御当代日顕上人猊下の御慈悲を拝することは、無上の喜びであります。」(昭和59年3月31日 「広布と人生を語る」第六巻)
1984.5
塔婆供養について池田指導
塔婆供養の意義について述べておきたい。死後の生命は、宇宙に冥伏し、生前の因縁に応じて、十界のそれぞれの世界で、苦楽の果報を受けているのである。塔婆供養による唱題の回向によって、諸精霊に追善がなされ、生命の我を悪夢から善夢ヘと転換していけるのである。」(昭和59年5月号 大白蓮華 池田指導)

末法の戎は大御本尊を受持すること
日蓮正宗の授戒の意義について述べれば、本門戒壇の大御本尊を受持することが末法の戒であり、爾前迹門等の邪法邪義の謗法を捨て、三大秘法の正法正義を純真に信受する決意を誓う、厳粛な入信の儀式が、正宗の授戒の儀式です。(大白蓮華 昭和59年5 月・臨時増刊号)
1984.5.8
「大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所ともいうべきどうしても通らなければならないのが創価学会の選挙なのでございます」聖教新聞
1984.5.14
人材グループ合同結成式(福島文化会館)
池田「我が日蓮正宗の、根本中の根本は、ご存知の通り本門戒壇の大御本尊であられる。その大御本専を代々受け継がれる御法主上人がおられ、七百年にわたる伝統法義が厳然とある。この正宗の根本軌道に則った信心こそが、正しき信心であり、無量の功徳があるわけである。自らの信心の濁りや、驕慢から、その根本軌道を失い、同体異心となってはならない。『正信会』が、その一つの最たる例といってよい。このような事は、過去にもあった。現在もあった。未来もまた、あるかもしれないが、よくよく正しき信心を、見失ってはならないのである…」(聖教59・5・16)
1984.5.17
『週刊サンケイ』 学会内部告発小説を連載
学会幹部による内部告発。5/24号から8/30号で、実在の人物の名を少し変え、彼等の悪行数々を告発。のちに単行本「小説聖教新聞」(グループS)として出版。この書を書いた聖教幹部数人は突き止められ粛清された。 『“会長先生、寸暇を惜しんで激励行”とか“陰の部門のひとに心からの思いやりと配慮”なんて書いているけど、あんなもの、ほとんどが演出だよ。実際は自分の奮闘ぶりをアピールするために、ベンツやプレジデントに乗って、大勢の幹部と警備をしたがえ、勝手気ままに大名行列をしているだけのことだよね。ところが会員は、われわれが書いている虚像のPを慕っているんだ。純粋な信仰心なんてないというのがPの実像だよ。あの人は事業家なんだ。それも信仰を利用した事業家だよ。組織を拡大し強大にすれば、それだけマーケットも広がると考えているだけさ。つまり、会員はだまされているわけで、われわれはそれに加担しているわけだ』(小説聖教新聞)
1984.5.19
ポーリー・トインビー女史 池田氏批判手記掲載
故トインビー博士の孫娘・ポーリー女史は直に池田氏と対面した経験を元に、イギリス『ガーディアン』紙 に厳しい批判記事を掲載。【詳しくは】
1984.5.19
月刊「諸君」 マスコミを金で抱き込み
学会は、日伯毎日新聞社社長中林敏彦氏を鈴木琢郎会長室長が訪問し7千ドルを。バウリスタ新聞には、3千ドルを。サンパウロ新聞には1万ドルを。この外学会は、プラジル日本文化協会やサンパウロ日伯援護協会に対しても池田訪伯ムードを盛り上げるために各1万ドル寄贈した」(諸君59・5)
1984.5.22
島根記念県幹部会(島根文化会館)
池田「″信心に徹した人物″……まさに、この人こそ広布の人材である。利害と毀誉褒貶の心をもつた人は、いつしか、とうとうと流れゆく広宣流布の大河から沈んでしまうものだ。そのよき例として、増上慢の限りを尽くした正信会がある。また、彼らと一体となって宗門と学会を狂気のごとく撹乱しようとして去った幹部もいる。御法主上人猊下に師敵対し、同志を裏切り、仏法を全く知らず、信心も全くなき邪道邪心の面々は、必ず去り沈んでいくものである。要するに清らかな和合僧のなかにあって、邪な心をもつ人々は自ら去っていかざるをえなくなっていくのが道理なのである。私どもは原理原則をふまえ、永遠に僧俗和合をしていかなければならない…」(聖教59 5・24)
1984.6
秋谷会長 腸閉塞で入院
病室に監視役が付く。矢野書記長との電話で池田氏への面従腹背をにおわす。
1984.6.5
北京大学名誉教授授与、同大学で「平和への道・私の一考察」を講演
1984.6.8
聖教 社説「広布史に意義深き米国御親修」
「総本山第六十七世御法主日頭上人猊下は、五日間にわたるアメリカ御親修の全旅程をつつがなく終えられ、六日、御健勝のうちに帰国された・・・今回、御親修されたサンフランシスコの地は、御法主日顕上人猊下が宗門の教学部長に就かれていた昭和三十八年三月、宗門にとって初の海外出張御授戒のため、現・大村寿顕教学部長とともに渡米された折、訪問された地でもある。今から二十一年前に出張御授戒が行われた時に入信したメンパーも今回の落慶入仏式に参列。新寺の誕生をことのほか喜んでいる姿が見られた」(聖教59・6・8)
1984.6.29
日蓮正宗護法局設置
1984.7.13
学会 原島氏の資料持ち出し裁判で全面取り下げ
聖教新聞では「窃盗男・原島」と罵ったが、この裁判では学会の完敗に終わった。
1984.9.4
第四回世界青年平和文化祭(甲子園球場)
1984.10.13
池田の次男・城久氏(29)が病死、胃潰瘍と発表
「池田名誉会長の次男・城久氏は三日夜、胃かいようのため東京・豊島区の癌研究会付属病院で逝去した。享年二十九歳。九月中旬ごろ胃痛を訴え検査したところ胃かいようとの診断で、九月二十五日から治療をしていた。三日午後、容体が急変し同病院に緊急入院し、手術したが、出血のため逝去した」(聖教59・10・5)

父・大作はドクター部幹部である婦人科医院に偽名で入院させるが、様態悪化のため癌研究付属病院に転院。実際は胃穿孔という早い措置なら治るはずの病気で死去。 池田氏は側近幹部に「城久を衆議院へ出して公明党委員長にしたい。どうだ、みんな応援するか」と語っていたため、自身の後継者にすることを目論んでいたことは間違いない。
 
「自・公」連合を打ち出し二階堂擁立工作に関与
次男の葬儀の場で、池田氏は竹入公明委員長らと自民党総裁選の二階堂擁立に関与、自公連合を仕組む話し合いをする
1984.11.17
聖教社説「『創価学会創立記念日』に寄せて」
まさしく『実質三十数年』の創価学会の嵐と栄光の歴史は、大御本尊に感応しつつ総本山外護のために一身をなげうった歴代会長の死身弘法の戦いがあったればこそである。また、それに呼応して茨の道を切り開いた草創の先輩の広宣流布に進みゆく『勇敢なる信心』があったことを忘れてはならない。創立五十五周年の明年は『開拓の年』である。広布登攀の旅はいま、二十一世紀を望もうとする重要な時を迎えている。ここに臨んで私達は、大御本尊の大慈大悲に報思感謝するとともに、歴代会長ならびに草創の先輩が築いた峻厳な伝統精神を未来万代まで継承する決意を、いや増して固めたいと思う」(聖教59・11・17)
1984.11.18
創立55周年記念勤行会(学会本部)
副会長に小林宏、吉田要、佐藤武彦、川田洋一、桐村泰次、木村勝、芳賀昭人、松山久夫、上田金治郎、宮川斤也、斉間武、松岡資、宮川清彦、鈴木琢郎、細谷昭の15名が就任(聖教59・11・19) 【副会長の総数は53名】
1984.11.23
第4回全国未来会(東京・広宣会館)
池田「‥学会員はすべて日蓮正宗の信徒であり、仏法の師は、代々の御法主上人であられる。それを根本として仏意仏勅を自覚し広宣流布をば誓願した学会である‥‥組織上の役職の論理のみでは、やがて組織が優先し信心のみずみずしい脈動が失われてしまう場合がある。そこに正しい信心と正しく広宣流布へと向かいゆくための指導者が必要なのである……ここ数年来、策略や陰謀、そして迫害の連続の難をうけたが、ことごとく勝利することができた。彼らは『法華経に勝る兵法なし」いう大法理を知らなかったのである。諸君はその原点を深く知らねばならない…」(聖教59・11・24)
1984.11.30
聖教「日顕猊下 ニューヨークヘ親修」
◇名誉会長、理事長らが歓送 「出発に先立ち、歓送会がこの日午後六時過ぎから成田空港の特別待合室でもたれた……池田名誉会長は諸天も寿ぐ平安な天気のもと、五たびとなる御法主上人猊下の海外御親修の御出発にあたり、信徒一同を代表してお祝い申し上げた。更に、御法主上人をお見送り申し上げるたびに思うことは一閣浮提の御座主。第二祖日目上人がどれほどか喜んでおられるであろうかと深く感ずるものであると述べた。また世界の中でのニューヨークのしめる重要性に触れ、今回のニューヨーク御親修は末永く宗史に残る御壮途と拝すると語り、 つつがない御親修であられるようごあいさつ申し上げた」(聖教59・12・1、2)
 
接遇活発化
この頃から、名誉会長への接遇など池田詣でが活発化する 長谷川重夫氏が介在人としての役割を果たし一躍池田氏の側近となる 接遇品の高価な物は池田が独り占めし、その他は本部幹部らに分け与え、更に会員に「先生」からと配られる。
➡この接遇には全国の会員が、池田個人宛に餞別(現金)を送っているが、税務調査は宗教法人のに壁によって阻まれている。
1984.12.18
衆院選で58名が当選

昭和60年

1985.1.1
副会長に平野恵万、野間浩、北野佑一郎の3名が就任(聖教60.1.4)
【副会長の総数は56名に】
1985.1.23
京都代表者会議 京都池田講堂
「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(御書一三三八ページ)と仰せのごとく、日蓮正宗の御本尊への信心の血脈が流れているかどうかである。 (昭和60年1月23日 「広布と人生を語る」第七巻)
1985.2.17
本部幹部会(東京戸田記念講堂)
秋谷「…広布部員の皆様の財務についても、一言ふれさせていただきたい。いうまでもなく、私たち、創価学会の活動は、日蓮大聖人の御仏意である広宣流布をめざすものである。折伏。弘教の威風堂々たる前進は最高の仏法の実践であり、『法施』であり、法の供養である。財務もまた、その目的達成のため、すべて日蓮大聖人の御精神に連なり、広宣流布に連なる重要な意義を込めた誠心の結晶であり、信心の発露であると、深く受けとめているものである。もとより、御供養は三宝に奉るものであることは当然である。そのうえで、私どもの財務への参加は、ひたすら、大聖人の仏法興隆のため、広宣流布のため、『御供養の精神』で、参加をしていくことであると信ずるものである」(聖教60・2・18)
1985.3.21
聖教社説「真実の『回向』とは何か」
「彼岸の本義、回向の法理を知った我々は、先祖供養の志をもちながら誤った回向をしている人々に、自身も先祖もともに正しく彼岸に至る道を教えていかねばならないと痛感する。私たちは、日蓮正宗寺院に参詣し、塔婆を建てて先祖に回向するとともに広宣流布への一層の精進を決意して彼岸を意義あらしめていきたい」(聖教60・3・21)
1985.4.2
創価女子短期大学開学
1985.4.6
聖教社説「御虫払大法会と富士の正統」
「大聖人以来の重宝類を大切に保存し、後世に末永く伝えていく御虫払の儀式は、どこまでも清らかな法水を厳然と受け継がれた第二祖日興上人のご精神にその淵源を求めることができよう……御本仏・日蓮大聖人の仏法を寸分も誤りなく紹継された日興上人の正法護持、令法久住への御尽力があったればこそ、また御歴代の御法主上人並びに数多くの清信の僧俗の戦いがあったからこそ、今日、我々が大聖人の仏法を正しく信行することができることを忘れてはならない……意義深い霊宝御虫払大法会に際し、各人が改めて令法久住に全魂を傾けてきた日蓮正宗の伝灯に思いをいたし、正法流布への精進を誓い合いたい」(聖教60・4・6)
1985.4.22
宮本宅盗聴裁判で北条前会長らに1000万円の慰謝料命じる(直ちに控訴)
秋谷談話 「判決のなかで、大城裁判長は、積極的ではないものの、故北条氏も関与したものとして、故北条氏ら四人に総額百万円の慰謝料の支払を命じた……審理は、約四年四カ月にわたって続けられてきたが、山崎は故北条氏がすでに他界し反論できないことをよいことに、巧みに虚構をデッチ上げた供述を繰り返してきた。今回の判決では、遺憾ながら、その点を看過して、不当にも故北条氏の関与を認定したものである。故北条氏の遺族は直ちに控訴する、といっている。なお、被告の一人とされた北林芳典氏については、請求が棄却された」(聖教60・4・23) (諸君60・7)
 
フランスでセクト報告
「フランス国民会議に提出された『フランスにおけるセクト(カルト)』において、創価学会が会員から強引な金集めをしている実態がレポートされた。
1985.5.1
創立55周年創価学会特別記念展
◇総本山第六十七世御法主日顕上人猊下より拝受の居士衣「昭和五十六年十月十二日、宗祖日蓮大聖人第七百御遠忌を記念し、大御本尊御建立の意義深き日に、総本山第六十七世御法主日顕上人猊下より、池田名誉会長に賜った居士衣」(聖教60・5・1)
1985.5.3
聖教社説「不滅の″5月3日″を晴れやかに」
「創価学会は、順風の時も逆風の時も、歴代会長を中心にした固い生命の絆で進んできた。その代々の会長との共戦のスタートこそ″五・三″であるこうした意味からも、東京会館で開催中の創立55周年『創価学会特別記念展』は意義が深い。代々の会長が総本山を外護し、会員を守るために、一人心血を注いできた激闘の跡をしのばせる展示品の数々。そしてまた、その不惜の実践に全幅の信頼を寄せ、温かく慈愛を注がれてきた御歴代御法主上人猊下と創価学会との僧俗和合の姿を如実に示す重宝類…… 『偉大なる 指導者ありて 広布また 道にこころし 進みゆくらむ』とは、御当代第六十七世御法主日顕上人猊下から池田名誉会長が賜った御染筆で、これも特別記念展に展示されている」(聖教60・5・3)
1985.5.5
池田氏 青年会員にたじろぐ
創価学園出身者の集い“第一回鳳友会”の開催。
 この会の開催は藤原行正氏の次男・範昭氏潰しを目的として池田氏自身が招集を命じたもの。 池田氏が講演を終え移動中、範昭氏が「池田先生、お話があります!」と声を掛け、用意していた質問書を手渡す。ボディーガードの目撃談によると、池田名誉会長は数秒間、うろたえ直立不動のまま、両目も完全に焦点が合わない様子だったと証言。
1985.5.30
池田、ノリエガ将軍と会談(聖教新聞社)
「この日、将軍は会談に先立って総本山大石寺に拝観しており、名誉会長も前日の雨もやみ、晴天のなかでの総本山拝観は、まさに貴国の大発展を象徴していると思うと喜びを述べれば、将軍も前日の科学万博は雨にたたられたが、本日は諸天善神に守られて晴天の中での拝観となったと笑顔で語っていた……語らいは、来日の印象やパナマ訪問の思い出等を交えつつ、進められ、将軍が『名誉会長の平和への信念の行動は、私にとつて、中米の平和を築く上でのまたとなき指標であり、手本ともなっている』と述べれば、名誉会長は『世界の指導者の中にあって、閣下は、まだお若く、二十年、三十年の未来が待っておられる。その意味で、一生涯パナマと中米の″柱〃として、平和と安定と繁栄のために活躍なされる方であると私は信じている』と語った」(聖教60・5・31)
1985.6.18
都議選で住民票移動17人が抹消
「中央区選出都議選を見守る有志の集い」は都選管に創価学会による架空住民票移動の疑惑を告発、都選管と中央区選管は選挙人名簿から17人を抹消した。
1985.6.27
聖教 「会員間の金銭貸借は厳禁」
『同志間の金銭貸借は厳禁』が伝統である。金銭の問題で同志を苦しめ、負担をかけることは厳に戒めたい」(昭和60年6月27日付 聖教新聞社説)
「社説」が言及している「金などの現物まがい商法」とは、金のペーパー商法で多くの被害者を出した豊田商事事件のことだが、この事件では、刺殺された永野会長が創価学会員だったのをはじめ、多くの会員が被害者となった。幹部が会員を利殖で誘うマルチ商法が会内で横行したのである。そこには当然、金銭貸借がからんでいたのだ。
関東近県で手広く事業を営んでいる元有力会員のこんな証言もある。
「よく副会長や、最高幹部から公明党の国会議員に転出した人物が金を借りにきた。家を建てたいので金を貸してほしいというので3000万円貸してやったこともある。そうして金を借りていった幹部が金銭貸借の禁止を口にしているのだからおかしな話。幹部が経済的に富裕な有力会員にたかるのはよくあることだ」(平成9年8月21-28日号 週刊実話)
1985.7.4
第5回世界青年平和文化祭(ハワイ・ホノルル市)
池田、猊下、藤本総監、ノリエガ将軍、アリヨシ州知事ら出席 池田、ノリエガ将軍と懇談(ホノルル市内)(聖教60・7・6)
1985.7.5
池田、太平洋国立記念墓地に献花(ホノルル・パンチポールの丘)
ノリエガ将軍、プラッドレー・ロス市長、マカカ連邦下院議員、アリヨシ州知事夫人らの出席(聖教60・7・7)
➡池田は世界の多数の要人と会見しているが、その目的は売名のため。しかし、ノリエガをその目的として使ったというより、パナマでの何等かの利益のために、他の要人以上に頻繁に会っている。
1985.7.7
都議選29名当選
1985.7.29
学会青年部 反戦出版『戦争を知らない世代へ』全80巻
1985.8.22
『週刊新潮』で藤原行正氏反乱
➡藤原氏は三代会長就任以来の片腕。告発本【池田大作の素顔】➡
1985.9.5
9月度全国県長会議(東京・広宣会館)
副会長に長谷川重夫、神谷巌、梅林二也、確井昭雄、久松忠、八谷洋一、辻仁志、新山士朗、井上正路、小島宏章の10名が就任(聖教60・9・6)
【副会長の総数は66名に】
1985.9.6
聖教「名字の言」
「太平洋と大西洋を結ぶ″第ニパナマ運河″が実現へ一歩動きだした……パナマ運河の入り口にある景勝の地・フラメンコ島は、ノリエガ将軍から『池田展望山』と命名された。同地は四年前の二月、池田SGI会長と将軍の友情に満ちた平和会談の思い出をとどめている。新運河には平和と信頼を運んでもらいたい」(聖教60・9・6)
1985.9.21
聖教社説「彼岸会と先祖供養の意義」
「日蓮正宗においては毎日がお盆であり、毎日が彼岸と心得て仏道修行をし、朝晩の勤行において先祖代々の諸精霊の追善供養を怠りなく実践しているのであり、他宗でいう彼岸とはまったくその趣を異にしている。また他宗で行われる法要は一切無益である……春秋二回の彼岸は好季節到来の目印とされてきた。その時節に、成仏への功徳善根を積み、先祖の塔婆を立てて回向するのである」(聖教60・9・21)
1985.10.12
総本山大石寺開創七百年記念第2回慶祝準備会議(総本山)
「慶祝奉修委員会」藤本委員長、早瀬日慈副委員長「慶讃委員会」池田委員長、秋谷副委員長が発足
猊下「…開創七百年の昭和六十五年に向かって総本山の種々の面の整備も御奉公、御供養のなかに考えられているとうけたまわっている…」
池田「…総本山を荘厳申し上げる意義から、私どもは一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊まします正本堂を、本格的に補修整備いたし、荘厳申し上げることが何よりも根本と思うものでございます。そして世界宗教の聖地にふさわしい種々の山内整備計画を、順次具体化してまいりたいと考えております……いずれにいたしましても、大石寺開創七百年を慶祝する、この計画の記念事業は、万代にわたる極めて意義深きものがあると思っております。これからも現下の御指南をいただきながら、万遺漏なきよう宗開両社のお心に叶う、すがすがしい真心の結晶とさせていただきたいと念願する次第でございます…」(聖教60・10・13) (大日477)
1985.10.31
池田氏 東京女子医大に入院(11/10日退院)
「昭和60年の10月31日から11月10日までの10日間、名誉会長は東京女子医大病院に入院した。原因は糖尿病からくる心臓疾患。当時は気温が25度を下回ると発作が生じるということで、名誉会長が出席する会合には、すべて温度を25度以上に保つための空調機器が選びこまれた。かなり危険な状態が続いたんじゃないか」〈学会本部職員)(平成6年8月4日号 週刊実話)
この入院を期に信濃町の会館に池田専用の医療施設を設備。
➡池田の体調がこれより不安視されることになる。戸田は自身の病状を隠さなかったが、池田は現在の状況に見るように常に、隠蔽を行っている。
1985.11.12
学会本部文化会館に銃弾
2発の銃弾が撃ち込まれ後藤組組員が逮捕される。
<これには池田もビビッただろうな。そりゃそうだわ、行く先々で“パン”って音がするんだから(笑)。それで慌てて、俺んところに池田の使いが飛んできて、侘びを入れてきたんだ>後藤組元組長  フライデーH22.5.28号
1985.11.21
東京高裁 管長訴訟で自称正信会の控訴を棄却
管長地位不存在確認請求訴訟事件(東京高裁)
「日顕上人の血脈を否定する者(岩瀬正山ほか百七十三人)が、日顕上人等に対して日蓮正宗の管長、代表役員の地位不存在確認の本訴と、それらの職務執行停止を求める仮処分の裁判を起こしていたが、東京高裁第八民事部(鈴木重信裁判長)は21日、宗門側の主張を全面的に認め『控訴棄却』の判決を言い渡した」(聖教60・11・22)


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