昭和31年

1956.1.29
猊座の事には一切関知せぬ破る者は除名
「先代牧口先生当時から学会は猊座の事には一切関知せぬ大精神で通して来たし、今後もこの精神で一貫する。これを破る者はたとえ大幹部といえども即座に除名する」戸田会長『信者の大精神に立て』『聖教新聞』
1956.2.26
戸田「私は仏ではない」「大聖人のみが仏様」
私は劍価学会の会長でありますけれどよく私のことを”仏様だ””生仏様だ” “神様だ”“教主様だ”とか言うが、いつ私がそんな片輪になったというんです。そんな仏様、神様なんか皆片輪者である。御本仏だけが仏様である。今生きている人で大聖人様以外のぞいて、人間でクソをたれている者は凡夫である。私は立派な凡失なんですから、お金もほしいうまい物もほしい酒ものみたい。(聖教 S31.2.26)
1956.3.29
日淳 管長に就任
日昇・日淳座替式
1956.3.30
日昇 法を日淳へ付す
1956.5.1
「本門戒壇の建立は、日蓮門下の重大使命であることを論じた。しかし、重大使命であるとしても、もし本門戒壇が、現在の状態で建立されたとしたら、どんな結果になるであろうか。一般大衆は無信仰であり、無理解である。単に国家がこれを尊重するならば、現今の皇太神宮や、明治神宮のごとき扱いを受けるであろう。しからば『かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし』とのご聖訓のように、国に災難がおこるであろう。ゆえに、本門戒壇建立の大前提として、本尊流布が徹底的になされなければならぬ。」戸田会長・本門戒壇建立について指導
1956.5.31 
日達 総監に就任
1956.7.10
参院選に進出3名が当選
選挙違反容疑で多数の学会員が逮捕されるが、日本の国連参加の恩赦として釈放される。
 
『大白蓮華』第62号
「即ち末法の現在においては、絶対に戒壇の大御本尊様こそ、われわれが即身成仏できる生身の御本尊様であらせるのであります。また、われわれがいただいている御本尊様も、文底事の一念三千、真の草木成仏の理によって開眼された、これもまた生身の御本尊様であります。この御本尊こそ、真の木絵二像開眼の御姿でなくてなんでありましょうか。これは日蓮正宗以外の邪宗では絶対にないえないところであり、ただ日蓮正宗のみのもつ深秘の法門であります」 戸田指導
1956.7 
戸田会長「衆議院には候補者を立てない」週刊朝日7/29号
1956.7.22
鼓笛隊発足(33名)
1956.8.10 
戸田会長 学会解散について明言
岡山市妙霑寺の落慶入仏式の折に、第六十五世日淳上人に対したてまつり、「将来、もし学会が大きくなって、宗門に圧力をかけたり、あるいは内政干渉をするよう なことがあったら、いつでも解散をお命じください。」 と申し上げた。
1956.8.14 
【指導者】  『信心と申すは別にはこれなく候』(妙一尼御前御返事1155ページ)とあるが、かんたんにいえば、朝晩の勤行をきちっとすること、そして自分の悩みを赤ん坊の気持ちで御本尊様に訴えることで、自己が安心立命して、生命力豊かに生活できればよいのです。 (男子部班長会 当時、参謀室長 会長講演集第三巻)
1956.8 
「我らが政治に関心を持つ所以は、三大秘法の南無妙法蓮華経の広布流布にある。即ち国立戒壇の建立だけが目的なのである」大白蓮華8月号
1956.9.1 
「大日蓮」板本尊偽作論特集破折号(大日蓮127)
1956.9.29 
お山への供養
このまえ、大講頭という職名がお山に決まりまして、私も全国大講頭の一人になったんですが、お山へお金をあげたら、収支決算書を出せという大講頭がおった。それで私はけんかしたのです。ふざけるな! というのです。お山へ金を供養して、坊さんがどのように使っても、使ったほうの罪で、出したほうの罪ではないですから。そうでしょう。どういうことでも、お山から収支決算書を出したということはない。だから、それはいかんといった。私も、私がヘたにその金を使えば、罰は私にでる。だから、それは使いませんが。(東京・豊島公会堂)
1956.12.10 
池田氏の父・子之吉氏(68)逝去
父から勘当されたことがある池田大作は、父を折伏できずに終わる。 結局、邪宗教である真言宗で父親の葬儀を出したのである。 この墓とは別に、 昭和三十九年四月、高尾墓園に池田大作が新しい墓を建立。父の法名・種田院法子日実居士をいただく 【資料】➡

昭和32年

1957.4.7
保田妙本寺・末寺4カ寺帰一奉告法要(大石寺御影堂)
1957.6.30
学生部結成大会(麻布公会堂)
1957.7.2
創価学会の本質、すなわち目的は、あくまで日蓮大聖人様の不滅の生命哲学をもって、東洋民衆を救うということであります。大聖人様の出世の御本懐は一閻浮提総与の大御本尊様、すなわち三大秘法の大御本尊様の御建立にあります。(当時、参謀室長 会長講演集第三巻)
1957.7.3
小説『人間革命』(戸田城聖著)発刊
1957.7.4
参院選補選選挙違反 -大阪事件-
小泉理事長、池田氏らの在京幹部が大阪で行われる参院補選の選挙運動において指揮を執り、それによって多数の学会員が選挙違反で逮捕され有罪となる。池田氏も逮捕され「戸田先生へ責任が及ばないため」として全面自供。のちの裁判では無罪となる。この事件を学会は反省せず"法難"と称する。 この事件では20人の有罪者が出る。罰金1万円から3000円、その内10人は公民権を三年間停止、7人には同二年の停止という判決が下る。 「創価学会幹部四十五人起訴 ・大阪発・大阪地検は、去る四月行われた参議院大阪地方区補欠選挙での創価学会幹部らの公選法違反事件について、二十九日、同学会本部理事長、東京都議小泉隆(四八)・東京都大田区蒲田五ノ一一・ら四十五人を買収で(うち二人は略式起訴)、同渉外部長池田大作(二九)・同区調布小林町三八八・ら三人を戸別訪問で、それぞれ起訴した。起訴状によると、この選挙で、小泉理事長は主として"実弾作戦"を、池田渉外部長は戸別訪問をそれぞれ担当、現地で指揮に当たり、大阪、船場、松島、梅田、堺の五支部に『選挙係』を設け、府下六万信者のほとんどを戸別訪問に動員したもの。投票数日前には"タバコ戦術"として職安十数カ所で、日雇労務者に候補者名を書いたピースなど約四千個をバラまいたという」(『朝日新聞』昭和三十二年七月二十九日夕刊)【詳しくは】➡

池田 自供するも裁判長権限でその後、無罪に
「当時、私が十人の弁護団をまとめていたのですが、弁護士たちは全員揃って『有罪は免れないだろう」ということでした。ところがどういうわけか、天は池田の味方をしました。池田は厳しい取り調べを受けて犯行を自白したのですが、なぜか裁判長が職権で拘置所に乗り込み、手錠をはめたまま飯も食べさせずに池田を取り調べたことを突き止めて、『こんな方法は違法だ。申し訳ない』と謝った上、検事調書を全部却下してしまったのです」(龍年光証言)(平成5年12月2日号 週刊文春)
1957.7.7
「わしの力あるかぎりは、断じて政党などやらんぞ」 『総合』7/7号での戸田会長指導
1957.7.17
池田氏 大阪拘置所を出所
大阪大会に出席 【大阪事件に叫ぶ】
 皆さまたいへんしばらくでございました。また、場外にもたくさんの同志がいらしているそうですが、場内の皆さま、場外の同志の皆さま、しばらくでございました。  このたびは、たいへん長いあいだ御心配をおかけしましたが、本日正午に大御本尊様の加護を受けながら、元気いっぱいでこのように出所してまいりました。ありがとうございました。  すべてのことはぜんぶ、大御本尊様が見通しであると、私は信ずるものであります。会長先生は、三類の強敵のなかにも僣聖増上慢があらわれてきた、このように申されており起ますが『大悪をこれば大善きたる」(大悪大善御書1300ページ)との日蓮大聖人様の御金言のごとく、私もさらに、より以上の祈りきった信心で、皆さまとともに広宣流布に邁進すると決心するしだいであります。  最後は、信心しきったものが、大御本尊様を受持しきったものが、また、正しい仏法が必ず勝つという信念でやろうではありませんか。 どうか会長先生のまことの弟子として、おたがいに、より以上の信心を磨いて、絶対的幸福をつかむためにも、大聖人様の御金言である、御予言である広宣流布成就のためにも、 一生懸命にさらに励んでいきたいことを誓い合って、あいさつにかえます。(当時、参謀室長 会長講演集第三巻)
1957.8.20
御尊師にもし間違いがあるならば、陰口なんてきかずに、正々堂々と、忠告すること。これは罰になりません。陰口は罰になるぞ。(戸田城聖先生講演集上)
1957.8.30
日向定善寺において本末6ヶ寺を帰一奉告法要
1957.9.8
若人の祭典(横浜・三ツ沢競技場)
戸田 原水爆禁止宣言
1957.10.18
池田参謀室長 入信の真実語る
「私が信仰したのは、丁度今から十年前の八月二十四日です。……折伏されたのは、前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった二階の八畳と六畳の二間でした。……そこで多くの広宣流布の人材が毎日会長先生の御講義をきいたんです。私はそこで教学部長から折伏されたんです」
「一応信仰したけれどずい分悩みました。「えらいことをやっちゃったな、一生、南無妙法理犖経と唱えるのか、みんな気狂いだと思うだろうなあ・・・」などと、ずい分苦しみました。」 (「聖教新聞」昭和32年10月18日)
1957.10.31
本部幹部会 戸田 最後の出席
1957.11.8
学会は政治をやるのではない
「けっして学会は政治をやるのではないのです。また、経済界にどうしようというのではない。ただ、信心が中心! 信心をやるのです。」(戸田城聖全集 第4巻)
1957.12.13
会員世帯数75万世帯に
1957.12.17
宮崎県児湯郡本蓮寺帰一入仏式
1957.12.18
宮崎県日南市本照寺帰一入仏式

昭和33年

1958.2.13
男子部幹部会(豊島公会堂)
池田「大御本尊様を中心にして鉄の如く団結しよう」(年譜・池田大作)
1958.2.14
「会長就任以来七年になるが、私は七年目ごとに難に逢っている。今度の病魔も打ち破ったのだから、もう七年また会長としてがんばるから一つよろしく頼む。… …『源深ければ流れ遠し』の通りで、要するに学会の振興は会長自身がしっかりしなければならん。… …明日から以前と同じように本部へ行って指揮をとる」(戸田会長指導)
1958.3.1
法華本門大講堂の落成慶讃大法要  【資料】➡
三月一日、法華本門大講堂が大石寺に落成し、大法要が行なわれた。同講堂は五階建のビルで、工期一年三ヵ月を要し、その工費四億円は創価学会信者による寄付でまかなわれていた。
大法要には当時の首相・岸信介、文相・松永東が祝辞をよせ、また東京都知事・安井誠一郎等が出席した。創価学会信者はその日から三月いっぱい、二十万人が慶祝登山し、その間、戸田は本山に滞在して指導に当っていた。(池田大作権力者の構造)
 
戸田会長 池田氏を叱る
手紙で触れた三月一日の「大講堂落慶大法要」―
 静岡県知事を始め多くの来賓を招いての大事なセレモニーの場面でも、池田はどこかにいなくなっていた。戸田先生が「池田を探して来い! 」と命ぜられ、ジリジリしながら待っていると、池田はエレベータの所に現われた。それを見つけた戸田先生が、大声を張り上げ、「何故、大事な時に俺の側にいない! 俺とお前しかいないんだぞ。それなのに、お前はどうしていないんだっ! 」と、池田を怒鳴りつけた。 池田は、恐縮するでもなく、「いえ、私のような者はこんな晴れがましい場に出るより、外で案内係をしているほうが相応しいので… … 」と謙遜ぶった言い訳をしていたが、その表情は、叱り飛ばされた屈辱で見るからにムッとしていた。戸田先生は、池田をそのまま置いて、一人でエレベータに乗って祝賀会に出席された。 戸田先生はそれまで、池田を公衆の面前で叱りっけることなどなかった。池田の態度がよほど腹に据え兼ねたのだろうと、我々はみな驚いたものだ。  
 のちに池田は、「このエレベータの前で、次の会長はお前だ、という相承を受けた」とある人に語っている。これは、とんでもない大ウソである。
 今から思い返せば、池田はこの頃から、次第に戸田先生と距離をおくようになっていたようだ。
 戸田先生が「敵は内部だ」と私にいわれたのは、まさにこの事件の後だ。 先生はこの日の式典でスピーチされ、「日蓮正宗の敵はすべて倒した。身延にもペンペン草を生やした。御書全集も編纂した。自分にはもう思い残すことは何もない… … 仏法でいう『諸願満足』である」と、あたかも自分の死期を悟られたかのような趣旨の話をされた。 私はそれを聞いて、別の意味で驚いた。というのも、私は常に先頭に立って学会の敵と戦うことが自分の存在意義だと思ってきた男である。それなのに、学会の敵がなくなってしまっては、生きがいがなくなってしまうではないか。そこで、宿坊に引き揚げ、横になっておられる先生の枕元に行き、「先生、これから先は、学会は何を敵として戦えばいいんですか」と問うた。すると先生は、すっくと体を起こして、「いいことを聞いてくれた。敵は内部だ。敵は内部だ」と繰り返しいわれた。 その時、私はこの言葉を漠然と、「より団結を固めよ」という意味に理解した。しかし、今にして思えば、昼間の会場での叱責と合わせ考えれば、「内部」の指す意味はより具体的だったことがわかる。 池田は、先生の死期を察して、次の会長の座を睨んで動き回っていたのだ。学会の最も重大な時期に先生の側を離れ、派閥作りを始める。戸田先生が常に戒めてきた、学会にとって最も害のある行動である。実は池田は、戸田先生のお元気な時から、青年部の主要なメンバー( 北条浩、森田一哉、中西治雄、星野義男等) に自分を「先生」と呼ばせていたことを、私は後で知って愕然とした。あの時、戸田先生は内心? 学会の敵は、池田のような男だ」といいたかったのではないか。 (『池田創価学会を解散させよ』 龍年光著)
1958.3.16
戸田 後継指名せず
「戸田先生は、お体が非常に悪くなっており、歩くに歩けなかったため、理境坊から大講堂まで戸板のようなもので運ぶように、池田に指示されたのです。ところが池田は、当日、とてつもなく大きい御輿のような車駕を作らせて持ってきたのです。それを見たとたん戸田先生は、渾身の力を振り絞るように、「なんだこれは。これでは戦場を駆け回ることはできんじゃないか、大作、お前はなんという奴だ。俺の心の分からん奴だな」と怒鳴りつけられたのです。すきましい剣幕でした。私たちはその剣幕に、皆、首をうなだれていましたが、池田だけはシラーンとしていました。師匠に『俺の心の分からん奴』と言われたのですから、弟子失格でしょう。そういう経緯があったからこそ、3月17日に理事・参謀会議のメンバーが、戸田先生に、三代会長の指名をお願いした時にも、先生は、池田を指名せず、『それはお前たちで決めるんだ』と、2度も繰り返されたのだと思う」(龍年光氏証言)(平成4年10月22日号 週刊実話)
1958.3.22
戸田 公の会合、最後となる理事会に出席
1958.3.28
的場暴力事件
創価学会(池田氏ら)は大石寺の境内で、大石寺の所化頭である的場正順師に対するリンチ集団暴行事件を引き起こした。この事件は、日蓮正宗宗門に対する威嚇・威圧のために池田氏が、側近の星野義雄登山部長らの青年部員と立案、実行したもので、大石寺内事部で修行している所化・小僧を統括する立場にある所化頭の的場師を、大石寺境内を流れる潤井川の水に沈め、暴行を加えたというものである。
【他の参考資料 池田大作権力者の構造 講談社】

「追撃の手をゆるめるな」の捏造
「戸田先生は、(宗門攻撃の)追撃の手をゆるめるな、といわれた」と。 これは池田の完全な「捏造」である。なぜなら、戸田先生はたとえどのような理由があるにせよ、日蓮正宗の僧侶に対するこのような暴力行為を認めるはずがないからだ。 戸田先生は終生、日蓮正宗の僧侶を心から尊敬され、学会に対して、それを身をもって示されてきた。特に、修行中の所化・小僧さんに対しては、親のように可愛がってこられた。戸田先生は毎年、正月に登山された折、ご自分の宿坊(理境坊)に所化・小僧さんの全員を招待して、衣を差し上げるという儀式を行なっていた。彼らを御本尊様の前の上座に並ばせ、自らは下座に坐り、恭しく一人一人に新調の衣を差し上げるのだ。この衣は、それぞれの寸法に合わせて、予め東京で作らせたものだった。 そして、ご馳走をし、お土産を持たせて大坊へお帰しする。先生はその理由を、私たちにこう教えた。「この中から、必ず将来の猊下がおでましになるのだ」と。その先生が、若い所化たちが親代わりと慕う所化頭に対する暴行に対して、「追撃せよ」などとおっしゃるはずがない。(『池田創価学会を解散させよ』 龍年光著)
※「追撃の手をゆるめるな」とは、的場師リンチ事件直後、理境坊で安静していた戸田会長のもとへ池田氏一人がこの事件を報告し、遺訓としていただいた言葉であると学会内に流布している指導である。つまり誰も証人は存在していない。
 
第三代会長は「お前達で決めるんだ」
 この儀式(※3・16)の後、先生の体がいよいよ衰弱されたため、原島宏治、小泉隆、辻武寿、柏原ヤス、馬場勝種ら理事だちと、池田・北条・森田・龍の四参謀が揃って戸田先生の枕元に行き、遺言を聞こうということになった。音頭を取ったのは辻、原島、小泉らで、この際はっきり池田を三代会長に指名してもらおうというハラづもりだったようだ。辻は「大久保彦左衛門」と渾名され、どんな場面でも物怖じせずにズバッと物をいう男だった。この時も、病の先生の枕辺で、当然のような顔をして、「先生、三代会長は誰にするんですか」と単刀直入に尋ねた。ところが先生は、はっきりした声で、「それは、お前たちが決めるんだ」と答えられた。当然、「池田」という返事が返ってくると期待していた辻は驚き、もう一度同じことを聞いたが、返事は同じであった。
1958.4.2
戸田会長 急性心衰弱のため逝去 (58歳) 日大病院
学会幹部は誰も立ち会っていなかった。 死後駆けつけた池田は後に、「戸田先生の死ぬときは大変だった」と語っているが、「死ぬとき」とは死の瞬間の時ではない。
戸田氏は、死を前にし、近親者に「今度の病気はいままでと違う。これも、僧侶をいじめた罰かもしれない。」と語っている。
 
臨終のとき、学会幹部はいなかった
 戸田先生は、本山で最後を迎えるつもりでおられたが、一切の行事が終了したので小泉理事長がお願いして、三月三十一日下山し、日大病院へ入院して頂くことになった。理境坊へ駆けつけてこられた奥様に、「あなたたちは何ですか、戸田がこんな状態になるまで、こんな寒い所に置いておくなんて!」と、涙声で叱られたのを私は覚えている。
 戸田先生は、四月二日奥様にみとられながら息を引き取られた。 先生は常々、奥様に、「俺は全国を飛び回っているが、死ぬときはお前の手を握って死ぬよ」と、いっておられたと聞いていたが、まさにその通りの最期となった。 そのとき、病室には学会幹部は誰もいなかった。全員学会本部に詰めていた。 臨終のときが迫っていることをわかっておられた戸田先生は、学会に対する遺言はすべて本山で済ませて、いまは一人の人間として家族に看とられながら静かに霊山に旅立たれたのである。(『有徳王』龍年光)

戸田会長の死相について
戸田先生の訃報を聞いた全国の学会員が、お別れに駆けつけることを予想して、四月三日より八日まで、六日間御遺体は目黒の自宅に安置された。
その間、戸田先生のお顔は御金言の成仏の相、そのままで半眼、半口、色白く、笑みを浮かべていた。
四月八日、池袋の常在寺で御法主堀米日淳上人の大導師の下で、戸田家の葬儀が行われた。落合の火葬場で私は御遺族と共にお骨上げするために待っていた。でてきた戸田先生のお骨を見て、思わずアッと、私は叫びそうになった。
真白い頭の骨が少しも崩れずそのままであった。そのとき、〝羅什三蔵舌焼けず〟とはこのことかと思った。
大誇法のものは、生きながら頭破作七分すなわち頭の骨が七つに破れていると聞いていたが、戸田先生は死身弘法、護山護法の尊い生涯を貫いた証拠ではないかと私は思った。(龍年光談 『有徳王』)
1958.4.3
御法主堀米日淳上人は、戸田先生の訃報を聞かれ直ちに下山され、午前二時頃の富士駅発の列車で上京され目黒の戸田先生の自宅に、四月三日午前五時頃到着された。 二階の居間の御本尊様の前に安置されていた戸田先生の御遺体に、ねんごろに読経唱題された後、辞去された。(『有徳王』龍年光)
 
【もう一方の死相についての証言】➡
1958.4.3 
小泉理事長談
「先生の御遺言は特にありませんが、先生といたしましての遺言はただただ、先生がここに、立派なわれわれの生きるべき道を示して下さったことです。あとは『先生に続いて行け』というしかないと思うんであります」(聖教新聞昭和三十三年四月三日付)
1958.4.8 
常在寺で戸田の告別式(12万人が焼香)
1958.4.11 
池田氏の三男・尊弘誕生
1958.4.18 
敵は内部だよ
「(龍年光が)『先生、身延も既に敵でなくなった。ジャーナリストも敵ではない。一体、学会の敵は何ものでしょうか』とおうかがいしましたところ、先生は体を起されてはっきりと『それは内部だよ』とおっしやいました」(『聖教新聞』33年4月18日)
1958.4.20 
学会葬(青山葬儀場)
会員25万人が参列、岸首相、安井都知事らが出席)  
4千万円の香典を池田氏が没収、四十九日後、戸田家へ一部を返却
1958.5.3 
第十八回春季総会
理事長・小泉隆は、会長職は当分置かない、戸田がつくったレールの上を、脱線しないように創価学会という列車を走らせていくのが我々のつとめだ、と演説。(『池田大作権力者の構造』溝口敦)
1958.6.30 
池田氏 「総務」に就任
青年部参謀室長を兼務  会長ポストを巡る池田氏の策略はじまる
1958.9.14 
「仏さまは、ウソをつかないと私は信じます。また、会長先生もウソはつきません。仏さまです」 池田発言
1958.12.15 
日淳猊下 大石寺大講堂前庭園に戸田会長の歌碑を建立
 
戸田会長指導
私は日蓮正宗の信者であって、創価学会の信者ではないと思っている」 「創価学会に君らに信心してもらうものなんか何もないよ」【音声】➡
戸田会長遺言集➡



書籍紹介ほか

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◆参院選・東京選挙区に学会員が立候補!!
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◆除名された学会員登場

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