日蓮正宗法難史と創価学会

 創価学会では、牧口・戸田、池田大作氏の逮捕を法難と意義付ける。それをもって創価学会が正しい仏法の教えの教団であることの根拠かのように主張する。
 しかし学会のいう法難はあくまで自称に過ぎない。仮にそれを法難と認めたとしても、数から言えば日蓮正宗が受けた法難には遠く及ばない。
 では、その歴史を振り返ってみましょう。





1278年

熱原法難

 熱原法難のさきがけとなった事件に、同年4月、富士浅間神社での流鏑馬の神事が奉納されたおり、法華宗徒の四郎男が膀徒に斬りつけられ、瀕死の重傷を負った事件が起こる。さらに、8月には法華宗徒の弥四郎が何者かに斬首されるという事件が惹起した。
 9月になると、稲刈りをしていた法華宗信徒20名が襲撃され捕らえられる。その後の取り調べで、平左衛門尉は、神四郎・弥五郎・弥六郎の三名を、斬首してしまったのである。
 「凡そ行智の所行は、(中略) 下方の政所代に勧めて、去ぬる四月御神事の最中に、法華経信心の行人四郎男を刃傷せしめ、去ぬる八月弥四郎男の頚を切らしむ」(御書1403P)
これらは、邪教僧侶・行智の計略であるとされている。




1706年

千葉法難

 現在の千葉県で起こった法難。
 七件の檀家が、許可なく西山末の福正寺に寺替えをしたことが、地頭・戸田土佐守の逆鱗に触れて、名主の源右衛門等四名が斬首、組頭の五右衛門等七名が中追放、その親族百余名が軽追放という過酷な処置となった。



1723年

金沢法難

 加賀・越中・能登の三国を治めていた前田家の領内で、享保八年(一七二三年)より百年間にわたって断続的に法難が続いた。
もともと念仏宗の勢力が強く、領内に末寺がなかったところに、一気に正法が広まったことから法難が起きた。大石寺信仰が国禁となって弾圧が相次いだが、その中で、なお折伏が進展し、多くの法華講中が結成されている。




1757年

讃岐法難

 讃岐本門寺において惹起した法難。
 北山の画策によって、大石寺から北山本門寺の末寺に移されたことに抵抗し、大石寺への復帰を果たそうとした敬慎坊日精師・真鍋三郎左衛門が、本寺である北山本門寺に背いた咎により入牢となって牢死した。が、その壮絶な一念は長く受け継がれ、昭和二十一年( 一九四六年)、宗教法人法の発令に伴い、讃岐本門寺は僧俗満場一致の決議によって北山から離脱、日蓮正宗への帰一を果たしている。




1765年

仙台法難

 明和二年(一七六五年)、仙台において惹起。
 覚林坊日如師によるめざましい折伏の進展が奉行所を刺激して、日如師をはじめ多くの信徒が連行されて流罪、閉門、追放等の弾圧を受けた。中でも日如師の流罪は二十七年の長きにわたったが、師の教化によって、この地より四十三世日相上人が出られている。




1784年

伊那法難

 信州伊那においては、城倉茂左衛門が果敢に折伏を展開し、地元三か寺の檀信徒を悉く改宗させるに至ったが、ために、天明四年(一七八四年)、三か寺より讒訴されて法難を受けている。茂左衛門没後七十年にして、伊那の地には広布山信盛寺が建立された。



1795年

寛政度の法難

 二十六世日寛上人の『六巻抄』に触発されて、造像を廃し正境の曼荼羅御本尊に改めようとした要法寺に対し、京都の日蓮宗十五山が出訴して、一時は要法寺の全僧侶が召し捕りという事態にまで及んだ。法難は寛政七年(一七九五年)から文化四年(一八〇七年)の十三年間にわたって続いた。


1822年

尾張法難

 江尸時代中期、名古屋では、永瀬清十郎の弘教により、めざましい勢いで大石寺信仰が広まっていったが、これを危惧した日蓮宗の蠢動によって法難が惹起。文政五年(一八二二年)から三十余年にわたって法難が続いた。



1844年

八戸法難

 江戸時代末期の弘化元年(一八四四年)、仙台仏眼寺の住僧・玄妙房日成師によって奥州八戸に大石寺信仰がもたらされたことから惹起。
 派違いの信仰をしたことを咎められて、阿部喜七が追放となったが、次代の藩主が大石寺に帰依したことにより、十七年後の文久元年(一八六一年)、八戸に玄中寺が建立されている。




1846年

弘化度の法難

 総本山大石寺近隣において惹起した法難。
大石寺僧俗と身延派僧俗との論争が、自讃毀他の禁令に触れて処罰された。その破邪顕正の信心は、代々、法統相続されて今日に至っている。
 弘化度の法難(※法難の惹起した地名から猫沢法難とも呼ばれる) は、江戸時代末期の弘化三年(一八四六年)から翌・弘化四年(一八四七年)にかけて、総本山大石寺の近隣で起きた法難で、大石寺僧俗と身延派僧俗との論争がもととなって惹起した。
 この当時、大石寺は第五十一世日英上人の御代であったが、四十八世日量上人も御隠尊として控えておられ、駿河地方一帯に根を張っていた日蓮宗との間に少なからぬ軋轢を生じていた。



1943年

弾正会の法難

 当時の法華講中のひとつである弾正会を創始した藤本秀之助は、東京・常在寺の信徒・三谷素啓の折伏によって入信したといわれる。同じ時期に、やはり三谷の折伏で、後の創価学会初代会長・牧口常三郎、同じく二代会長・戸田城聖が入信している。
 その後、昭和七年(一九三二年)、藤本は弾正会講中を設立する。それからは、佐藤慈豊師の教導のもとに信行に励み、眷属を伴ってたびたび総本山大石寺に登山参詣して外護に力を尽くす一方、月刊誌『太陽』を創刊して布教にも努めている。また、時期は定かでないが、藤本はその後に出家して、法号を蓮城師と名乗っている。
 やがて、厳しくなる戦局に国を憂いた連城師は、月刊誌『太陽』に“戦争に勝利する道は正法による祈念である” と発表して、国主である天皇の日蓮正宗への帰依を訴えていった。その結果、昭和十八年(一九四三年)六月十六日、不敬罪の容疑で逮捕されたのである。取り調べは他の同志にも及んだ。




暁鐘編集室発行
※各法難の詳細は同書をお読みください。






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