大阪事件とは


前代未聞の選挙違反「大阪事件」
 これは、昭和32年の参院選補欠選挙で、大阪に派遣された小泉理事長と池田渉外部長の元、学会員45名が買収による選挙法違反事件で起訴となった。同じく池田氏も公職選挙法容疑で逮捕勾留。裁判において無実となり、これを後年、法難として意義付けしたものである。

事件の詳細

 また四月二十三日、参議院大阪地方区の補欠選挙が行われ、創価学会からは船場支部長・中尾辰義が立ち(落選)、小泉、池田らが選挙運動にあたっていた。が、これにからみ、大阪府警は六月二十九日理事長・小泉隆を、七月四日池田を、「堂々と戸別訪問せよ。責任は私が負う」と会員に要請した疑いで逮捕し、七月二十九日それぞれ起訴した。
「創価学会幹部四十五人起訴
 〔大阪発〕大阪地検は、去る四月行われた参議院大阪地方区補選での創価学会幹部らの公選法違反事件について、二十九日、同学会本部理事長、東京都議小泉隆(四八)=東京都大田区蒲田五ノー一=ら四十五人を買収で、(うち二人は略式請求)同渉外部長池田大作(二九)= 同区調布小林町三八八= ら三人を戸別訪問で、それぞれ起訴した。起訴状によると、この選挙で、小泉理事長は主として“実弾作戦” を、池田渉外部長は戸別訪問をそれぞれ担当、現地で指揮に当り、大阪、船場、松島、梅田、堺の五支部に「選挙係」を設け、府下約六万世帯の信者のほとんどを戸別訪問に動員したもの。
 投票数日前には、“タバコ戦術” として職安十数力所で、日雇労務者に候補者名を書いたピースなど約四千個をバラまいたという」(『朝日新聞』昭和三十二年七月二十九日夕刊)

 池田は大阪東署に十五日間留置され、検事のいうがままの調書に署名し、七月十七日(小泉は十五日) 保釈出所した。この間、創価学会は事件(大阪事件とよばれる)を、同会を「おとしいれようとして仕組まれた策謀」だとして、小泉、池田以外の関係者四十一人を十二日、戸田命令で除名し、小泉、池田の即時釈放を要求する大会を十二日東京で、十七日大阪で開催した。
(『池田大作権力者の構造』講談社)




戸田会長は大阪事件を法難と明言せず
 大阪事件の当時は戸田会長が存命中であり、東京から見守っていた。 であるから、この事件については、「戸田城聖全集第4巻」において答えている。しかし、戸田会長は、現在の学会のようにそれを“法難”と意義付けはしていない。片や、戸田自身の投獄については、“法難”と明言している。では、いつのころから、大阪事件を法難と呼ぶようになったのか。

◎戸田自身の逮捕→ 法難と明言
◎池田氏の逮捕→ 法難と明言せず



池田会長時代に大阪事件は神格化に利用
 池田会長の時代になり、池田氏個人の法難としての「大阪事件」は意義付けに塗り替えられた。


池田氏が無罪となった要因


龍年光氏の証言

 原島宏治氏が心配していた大阪事件の裁判は、判決を言い渡す前に、田中裁判長が弁護団を呼んで一枚の紙を渡した。
 その紙は、「拘置所の中で、検事が三人がかりで、池田に手錠をかけたまま、夜十一時まで、食事も与えず調べた事、従って検事調書はすべて却下する」とあった。田中裁判長が一人で拘置所に赴き職権で調査し、検事の行き過ぎを発見したお陰である。後でわかったことだが、この事件の前年、昭和三十一年の参議院選挙で池田は大阪地方区で白木義一郎を当選させた。そのやり方があまりにもヒドイので、大阪地検は激怒していたという。その翌年、無責任にも池田は、またまた無差別戸別訪問の指令を出していた。この事実を知った弁護団は全員、池田の有罪を確信していた。
 その証拠に、池田の直接指揮下で動いた山田哲一、鳥養ら大勢の幹部や会員は有罪になった。「一将功なりて万骨枯る」の言葉は、池田のためにつくられていたと私は思う。原島嵩が言った「池田の将棋は、王様が一人で真先に逃げ出す」と。この図式は、今も少しも変わらない。
 田中裁判長が渡した一枚の紙は、当時の弁護団の一人であった松井弁護士(故・北条浩会長と海軍兵学校の同期生)が持っていたので、私がコピーして故・北条浩会長に渡し、『人間革命』に大阪事件の裁判を書くときにはきちんとこの事実を載せろと言ったのであるが、この事実をひた隠しにして、あたかも池田の無実の罪が晴れたかのように書いてある。これは大ウソである。
(『池田大作創価学会の脱税を糾弾する』龍年光)



証言 石田次男氏(三代会長と目された人物)

 この事件で『戸田先生を引っ張る』と言った地検が戸田先生を引っ張らなかったのは何故か? 少く共、事情聴取位は有っても不思議は無さそうだが、それも無かったのは、決して池田が言うように『自分(池田)が泥を被った』からではない。このことは今明らかにして置く必要が在る。戸田先生に迄地検の手が伸びなかったのは、事件を担当した清原次席検事(地検ナンバー2)が断念したからに過ぎない。昔のことで、もう迷惑が及ぶことも無いであろうから真相を此処に明らかにして置く。
 敗戦の昭和二十年夏、清原氏は満州(今の中国東北部)に居て、真正面からソ連軍に追い回された。文字通り命からがら逃げ回った。その時、椎名晴雄――今は故人――という人に命を助けられた。清原氏は椎名氏を〈生涯の命の恩人〉として重く買った。二人共何とか帰国丈は果し、それぞれの道を歩み、昭和三十二年当時、清原氏は大阪で検事を務め、電源開発社員である椎名氏――第四代小岩支部長――は東京で学会の小岩支部幹事をしていた。この時の小岩支部長は石田であった。
 椎名氏は大阪事件の時、清原氏との関係を戸田先生に話し、清原氏へ〈石田紹介状〉という名目の親書を認め、石田がそれを持参して(十三日頃)地検へ清原氏を訪問した。
 『清原氏に弁護士を紹介して下さるよう申し入れよ』と戸田先生に言われた通り、このことだけ三十分位粘って言い張った。この日から二日後、まず田代富士男(後の砂利船汚職参議院議員)氏が釈放され、次いで池田氏も拘置所から出て来た。
 有体に言えば、清原氏は椎名氏の親書――内容は違法な懇願である―― に依って、満州での命の恩に報いたのである。大阪事件の捜査段階が、急にバタバタと締めくくられたのはこのせいであった。戸田先生に地検の手が伸びなかったのもこの為であった。清原検事が一切合財目を瞑って幕を引いてくれたからであつた。従って、断じて、
池田氏が一切合財を被ったからではない。池田氏は、当時、誰からもこの事情が漏れる気遣いが無いことを良いことに、萬事、自分の功績にして、学会員を総騙しにした丈だ」
 この選挙違反は、買収指示を除いて、あらゆる悪質な違反が池田の指示で大阪中で行なわれ、そのスケールの大きさでは前例がなかったといわれます。池田の有罪は当然でしたが、その事件担当の清原次席検事の存在と、偽証でかためた証言によって、四年半後の無罪を強引に勝ちとったものだ、と石田氏はその真相を明らかにしております。
(『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』原島嵩)







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