創価学会の教義逸脱を訂正した「特別学習テキスト」
創価学会が教義解釈を軌道修正創価学会は52年路線の時期に、板本尊の模刻、独自の教義感を内部に浸透させてきたが、宗門の忠告により、本来の教義を確認するため「特別学習テキスト」として徹底をはかった。以下、同テキストより転載する。
特別学習会のために (7ページ)
一昨年来、近年の創価学会の広布への歩み方をめぐって、宗門と学会との間に、さまざまな不協和が生じ、宗門から種々の御指摘がありました。
これらの諸点につき、日蓮正宗の伝統ある化儀化法のうえからみて、学会として現代社会に実践的に展開するなかに、行き過ぎ、逸脱等があったことを認め、改めるべき点は改め、正すべき点は正し、日蓮大聖人の大正法を広宣流布するため、永遠の僧俗和合のため努力を重ねてまいりました。
まず、昨年六月三十日には、過去の学会の教学展開のなかで、正宗の伝統法義解釈のうえから指摘のあった問題点を正し「教学上の基本問題」として聖教新間に掲載し、今後、学会の教学展開にあたり、逸脱のないよう確認をいたしました。
そして、昨年十一月七日には、総本山大石寺で代表幹部会を行い、近年の学会の歩みと流れを総括し、
一、学会のここ数年の指導・進み方、教学の展開のなかに正宗の信徒団体としての基本がおろそかになっていたこと、
二、五十二年のような学会の行き方は、行き過ぎがあったことを率直に反省いたしました。
更に本年五月三日には、この信徒団体としての基本、性格を新会則に明確にし、規則も改め、同時に、今後の僧俗間の問題については、最高教導会議、地方協議会等で話し合い、解決する道が開かれたのであります。(以下略)
(9ページ)
一、五十二年当時を中心とする指導のなかに、宗門、寺院、僧侶に対して、従来の正宗と学会の関係からもはずれた行き過ぎた指導があったことは、まず第一に率直に反省すべき点であります。
たとえば、極端に「寺へ行くな」とか「僧侶は折伏もしない。広宣流布しているのは学会だ」とか「寺院は単なる御授戒の場」とか、登山会を軽視する発言などがありました。
また、在家仏教的な考え方から僧侶並びに寺院を軽視し、日蓮正宗本来の三宝の意味を正しく理解せず、「学会が僧宝である」といった誤った記述もあり、結果として、あたかも日蓮正宗を無視するかのような発言があったことは、ことの経緯はともあれ、信徒として明らかな逸脱であり、今後、こうした考え、指導上の誤りのないよう十分注意をしてまいります。
(10ページ)
すなわち「大導師」とか「久遠の師」とか、「帰命」とか「主師親の三徳」という言葉、また「人間革命は現代の御書である」といったことなども、明らかに誤りであります。こうした表現を用いてはなりません。
これについては、池田名誉会長自身「私がごとき者を、かりそめにも、本仏などということはもちろん、思ったりすることも謗法なのであります」と明確に否定しています。また「私は凡夫の身であり、誤り多き身であります」
「創価学会には唯一至上の絶対者などもいない。日蓮正宗創価学会員にとって、唯一至上、絶対の尊厳は三大秘法の御本尊であり、他は全て創価学会会長といえども平等に末法の衆生であり、凡夫である」とも述べております。
(11ページ)
学会内における師弟は、あくまでも「よき師、よき法、よき檀那」の檀那のなかにおける指導性であります。具体的には、昨年の「11 ・7」で再確認したように、代々の会長は折伏・弘教の師であり、現実社会における人生の師であることを銘記すべきであります。
しかして、法義のうえで「よき師」とは日蓮大聖人お一人であり、代々の血脈付法の御法主上人であることを、正しく理解しなければなりません。
三、学会における正宗教学の展開にあたって、実践の教学として、社会に広く仏法を展開していくことに、主眼をおいて進められてきました。
もちろん、その展開にあたっては、どこまでも日蓮大聖人の仏法の正統の流れは、ただ一つ日蓮正宗にあり、また、大聖人よりの血脈付法は、唯授一人の代々の狙下であることを根本にしなければならないことは当然であります。また法体の血脈と信心の血脈の立て分けも正宗の根本義であり、信徒として正しく理解しなければなりません。
(11ページ)
戸田第二代会長の、いわゆる〝獄中の悟達〟については、どこまでも大聖人の仏法を古今の教えのなかで最高のものであるということを悟り、大聖人の南無妙法蓮華経を広宣流布していくべき使命の自覚に立たれたということであります。すなわち南無妙法蓮華経の大慈大悲に包まれた境涯に感涙したという思味でありました。それが日蓮大聖人の御内証と同じであるとか、大聖人の仏法とは違う仏法を創造したと受けとめてはならないことです。
(25ページ)
「大聖人直結」ということについては、大聖人即三大秘法の御本尊に南無し奉り、境智冥合するとの意味で述べたものであります。したがって、唯授一人、遣使還告であられる御法主上人貌下を通しての大聖人への直結であることは当然であります。
(35ページ)
第三代会長に関して「久遠の師」という言葉を使った場合がありますが、これは師弟の縁が深いことを述べようとするあまり行き過ぎた表現でありました。正宗では久遠の師とは大聖人のことであり、今後、こういう表現を用いないことにします。
(40ページ)
維摩詰が供養を受けたことは法華経で観世音菩薩が受けたのと同じく仏に捧げる意味であります。ことに維摩詰は在家であり、供養を受ける資格があるとはいえません。経文に応供とあるのは仏のことで供養を受ける資格があるのは仏以外はないのであります。したがって、在家が供養を受ける資格があるという記述は改めます。
(49ページ)
池田会長の挨拶
戒壇の大御本尊根本に広布に挺身
末法の御本仏日蓮大聖人の仏法の正統の流れは、いうまでもなく、わが日蓮正宗であります。法水潟瓶・唯我与我の代々の御法主上人猊下御一人にのみ、受け継がれておられるのであります。
私どもは、その清流の日蓮正宗の信徒として、今までも正法正義の広宣流布の一翼を担わせていただきました。また、随力弘通の日々を送らせていただき、最大の名誉と福運を自負しているものであります。
私達は、きょうよりはまた、ふたたび日達上人猊下が、熱原法難七百年記念法要のみぎり、御説法くだされた御聖訓、すなわち「とにかくに死は一定なり(中略)かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ」(御書一五六一ページ)の御金言を胸に、弘安二年十月十二日、末法総与の本門戒壇の大御本尊を根本として、御宗門を外護し、広布大願に、さらに挺身していく決意でありますけれども、皆さんいかがでしょうか(拍手)。